散策コース
鶴ヶ峰駅→高梨牛乳バラ園→本村神明社→二俣川橋→おかご橋→浄性院→鎌倉中の道→桐が作会館→左近山第一バス停(解散)
[鶴ヶ峰駅] (昭和5年開業)
昭和37年相鉄初の橋上駅舎化し、5両編成運転に備えホームを110mに伸ばすなど相鉄の近代化は鶴ヶ峰駅から始まったと云われています。
写真は昭和35年撮影
高梨バラ園
創設者である高梨芳郎氏が、1959年この地に工場を建設したときに、空いた敷地に趣味のバラを植えたことから始まったそうです。
当初は1万本あったのが、工場の敷地拡張に伴い、
いまでは500本ほどになってしまったとか。「タカナシ乳業バラ園」は、タカナシ乳業
横浜工場敷地内にあるバラ園です。クィーンエリザベスやローズヨコハマなど、約160種、500株のバラが美しく花開きます。
見ごろは春は5月から6月初旬。秋は11月。
本村神明社(二俣川村と今宿村の総鎮守)
本村神明社の創始は古く、武蔵風土記(神戸神明社の縁起)によれば、平安中期天禄(てんろく)元年(970)に伊勢神宮の神霊が半ヶ谷の峰に影向(えいこう)があったと記されています。
その後、川井に移り、更に二俣川に鎮座し、また保土ヶ谷の神戸町に移ったので、二俣川の宮を仮の宿とした。その後、神託(神のお告げ)があり神戸町(神戸神明社)に鎮座したとある。この神霊に対する信仰を持続し今日に至っている。明治42年に又口神明宮を合祀した。
二俣川の鎮守として祭られたのは、寛永19年(1642)徳川幕府から所領を賜った宅間三十郎の神殿建立に始まる。
昭和30年頃までは純農村地帯であったので、祭礼日は村の年間最大の休養と娯楽で、田舎歌舞伎や素人相撲が奉納され大変賑わった。学校は休日となり、全校生徒は校長の玉串法典に合わせ拝礼をしたと云われています。
神明社の祭神の天照大神は太陽を神格化した神であり、皇室の祖神とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき、広く信仰を集めた。古代においては、王家の氏神として、天皇、皇后、皇太子以外の奉幣(ほうへい)は禁止されていたが、中世に入り朝廷が衰退するに伴い伊勢神宮の信者を獲得し、各地の講を組織させる御師が活躍し、王家の氏神から日本全体の鎮守としての存在へと、神社の性格が大きく変わった。
また布教と共に各地の有力者による神領(御厨)の寄進が行われて、その地に伊勢神宮の祭神が分霊され神明社が各地に広まった。特に神仏習合(奈良時代)により神道側の最高神となり伊勢信仰が益々盛んになった。
本村神明社裏の石仏群
本村神明社の社殿裏に7基の石仏が在る。(左から)
1.道標地神塔(文政7年1824)右→北川井くわんおん
東二俣川くわんおん 左→南ふじ沢 西→大山
2. 庚申塔(文政元年1818)
3. 道標庚申塔(文化13年1816)浮彫
(三猿は右に2、左に1在る)西→大山厚木道 東→神奈川道
4. 庚申塔(宝暦11年1761)
5. 道祖神(文久元年1861)並立像(双体神)浮彫
6.地神塔(文政3年1820)蔵屋鋪講
7.庚申塔(延宝8年1680)阿弥陀如来立像
二俣川橋
江戸時代末期に作られた「夏野の露」(清来寺さん所有)にも記載されているが「二俣川」と「下川橋」が逆になっているようだ。
本村村と本宿村の境にあった橋で、明治22年の市町村制施行の際に、隣村の三反田村、小高新田、市野沢村、今井村と共に二俣川村を立て、その大字二俣川となったが、昭和14年、横浜市に編入され二俣川町となった。
写真の奥の方に見えるのが二俣川橋。
おかご坂(おかん坂)
おかご坂の由来は、鎌倉時代初期、源頼朝以下幕府の要人が遊猟でこの地に来たとき、輿(コシ)をここに置いて狩をしたことから、「おかご坂」と呼ばれるようになり、長い間のうちに訛って「おかん坂」になったと云われる。
また、この地域の字名では、内田・宮沢・左近山・二俣川などが当時からある字名として武蔵風土記に載っている。
写真の下の方に写っている道路が「鴨居~上飯田線」で二俣川駅南口をトンネルで抜け泉区方面に行く。
浄性院(じょうしょういん) 浄土宗源円山浄性院 (鎌倉光明寺の末寺)
本尊は阿弥陀如来坐像、高さ90cmで恵心の作と云われ、総本山知恩院より下付されたものと伝えます。
浄性院の起こりは、元この地に源円山浄性院長安寺という廃寺があったのを、天正19年(1591)地頭渡辺孫三郎が再興し浄土宗とした。源円山浄性院長安寺の山院号は、開基渡辺孫三郎の法名より名付けた。渡辺氏は桓武天皇の流れをくみ畠山氏とは同族です。
さらに、源頼光の四天王で、鬼の手を切り落とした話で有名な「渡辺の綱」も先祖の一人です。孫三郎の子の富次の代に渡辺家の菩提所となりました。
鐘楼の奥に4基の石塔が整然と並んでいるのが地頭・渡辺氏一族の墓石です。
新編武蔵風土記によると、この寺は最初、京都の知恩院の末寺だったものが、後に、鎌倉の光明寺の末寺に属したことが記されている。
浄性院の梵鐘は旭区内で最も古い梵鐘です。天明8年(1788)の物部氏作と云われています。物部氏は区内の他の寺院の鐘も造りましたが、第二次大戦下軍の徴収にあい、現在残っているのはここだけで大変貴重な存在と云えます。
現在の建物は昭和42年に建てられたものですが、江戸時代中期の作と思われる大涅槃図がある。
江戸時代は、代官が納める天領と旗本に領地として許された知行地とがはっきり分かれていました。渡辺氏は旗本、斉藤氏は天領を支配する代官であった。
鎌倉中の道
鎌倉街道とは. 征夷大将軍源頼朝が鎌倉で幕府政治を開くと、各地から鎌倉への道が開かれた。
この鎌倉街道は、 在所の武者たちが「いざ鎌倉」を唱え、馳せ参じる性格の強い軍事街道であったと言われている。 なお、当時の街道幅は馬2頭が並んでやっと通れる2m程であったと言う。
鎌倉街道と呼ばれる道はいくつもの道筋があるが現在往昔のままの道はほとんど残っていません。
鎌倉~柏尾~名瀬~大池町~万騎が原~本宿~鶴ヶ峰~白根~緑区寺山町を通る幅2m位の道です。
桐が作
昭和45年、町界町名整理に伴い、市沢町、川島町の一部より新設された町。町名は字名から採った。「武蔵風土記」には、市野沢村の小名として桐ケ作が記載されている。
「キリ」→焼畑や開拓地によく見る地名用語
「サク」→「サコ」「サキ」などと同じく谷あいの土地を意味する
従って[桐ケ作]は焼畑耕作をする谷間の地」の意。
横浜や三浦半島によく見られる地名だと云う。
南本宿橋(保土ヶ谷バイパス)
平成24年のデータでは横浜市の五年毎に行われる調査で保土谷バイパスの平日交通量が104,846台で一般道では全国一位と発表した。
最も交通量が多かったのは南本宿インターと新桜が丘インターで午前7時~午後7時迄の間に10万台余りが利用したことになります。
二位は環状二号線(市沢)の43,904台の倍以上の交通量でした。