コース
瀬谷駅→長天寺→徳善寺→大門大六天→日枝社→瀬谷神明社→古木ケヤキ→中屋敷地蔵尊→瀬谷銀行跡→善昌寺→北向地蔵尊→川口麹店→妙光寺→
牢場坂→観桜会場(解散)
長天寺→瀬谷8福神のダルマ大師
大師はインドの高僧であり、中国に渡り禅宗の始祖となられた方で禅宗の当時にゆかりの深い福神、また大師は「七転び八起き」や「面壁9年」等の熟語の中で庶民に親しまれています。
また、瀬谷の行政の中心地として明治17年に瀬谷村他二か村の戸長役場、同22年には寺の客殿に村役場が置かれ、大正5年小島政五郎氏寄付による新しい役場ができるまで、村役場が置かれていました。
ダルマ大師
六世紀頃に実在した禅宗の祖、ダルマ大師と云う高僧がモデル。転ぶと何度でも立ち上がる七転八起が縁起が良いとされています。
徳善寺→瀬谷8福神の毘沙門天
義民建功の碑は、明治新政府の新しい税制に反対し公平なる税制を求めて訴え、戦った川口儀右衛門・平本平右衛門両氏を讃えた碑で、市の地域史跡に認定されています。
徳善寺は子弟教育の場でありました。明治5年の学制発布により、同6年より23年まで瀬谷学舎として子弟教育の場となりました。当時の瀬谷村の学舎は、徳善寺、二ツ橋、若宮・妙光寺、新道・宗川寺の4か所でした。
また、「はがき」の語源になったという「タラヨウ」の古木(樹齢320年)があります。萩寺としても有名な寺です。
毘沙門天
ルーツはインドです。
仏界の世界を守る四天王の一人として北方を守護し吉祥天が妻と云われ、多聞天とも呼ばれます。勇ましい姿で七難を避け、七福を与える神です。
戦闘の神としても信仰され、楠木正成、上杉謙信も信仰した。
大門大六天
大六天は本来、神社やお宮さまに祀るものとされますが、土地の人たちが農業の神様として信仰していました。古くは、江戸時代からその習慣がありました。
大門と云う地名は、対岸の深見神社境内の参道であったと伝えられていますが詳細は不明です。
地神塔 嘉永3年(1850)
庚申塔 安永5年(1776)他に石祠、白山大権現あり。
日枝社
祭神はイザナギノミコト・イザナミノミコトの夫婦神ですが、往時より「山王様」と呼ばれ山王権現「大山咋尊」(オオヤマクイノミコト)を奉祀していたものを、明治元年の神仏分離令により改めたと伝えます。
米軍厚木基地の飛行機は、この神社の大ケヤキを目標にしていたと云われるほどの大ケヤキが社殿右にあります。
周囲5m、樹高約40m、樹齢350年で「横浜市の名木・古木」「かながわの名木
100選」に指定されてあます。
庚申塔 天和3年(1683)他4基
地神塔 年代不詳
石祠 (蚕神)があります。
瀬谷神明社
奈良時代の天平13年(741)相模の国府が海老名にでき、国分寺が建立され、その七堂伽藍の威容が伝えられています。その堂塔の内の講堂礎石を村の有志が、忠魂碑の台石にと望んで大正5年運賃諸費合わせて20円で譲り受けました。
忠魂碑には、明治10年の西南の役から太平洋戦争までの戦死した兵241柱が刻まれています。
昭和25年まで、瀬谷小学校横に、その後、徳善寺に移り、さらに、平成9年にこの地に移されました。
他に不動社、稲荷社があります。
中屋敷地蔵尊
地蔵 年代不詳
道祖神 天保6年(1835)
地神塔 天保11年(1840)があります。
この地は、中世鎌倉街道上の道の道筋にあり、昔の面影を残す屋敷や、立派なケヤキの並木が見られます。春は新緑、秋は紅葉と区内では一番古道の雰囲気を味わうことができます。
瀬谷銀行跡
明治から大正にかけては、瀬谷、旭地区は養蚕業が隆盛を極め各地に製糸工場が設立されました。このような経済の好況を反映して、瀬谷銀行は明治40年小島政五郎が分家の小島政八と共同で資本金50万円で設立しました。
昭和10年鎌倉銀行と合併するまで地域の発展に寄与しました。
善昌寺→瀬谷8福神の恵比寿
明治7年の火災で本堂、庫裡共焼失したが幸い本尊の阿弥陀如来、及び本山鎌倉光明寺よりくだされた雨乞い本尊は無事であった。
雨乞い本尊は、本山で宗の行事として行われる十夜念仏が、その都度雨にたたられ困った、そこで本尊の阿弥陀様を末寺の善昌寺に移されたと云われる。それ以来雨乞い阿弥陀様と云われるようになりました。
恵比寿神
七福神の中では、唯一日本出身の神です。
釣り竿と鯛を持った福々しい姿が印象的な神です。古くは漁業の神でしたが、次第に商売繁盛や五穀豊穣をもたらす神として発展しました。
北向地蔵尊
お地蔵さんは、東か南向きが一般的ですが、ここのお地蔵さんは北を向いています。それは南に当たる場所に大六天塚があり、その昔、罪人の処刑場跡と伝えられています。そのために北向きに建てられました。
川口麹店
文政年間の開業ですから300年にわたり麹一筋の専門店です。
当然、美味しい塩麹、麹味噌などを販売し、地元は勿論のこと、地方の食通の人達からは大変な人気店です。
妙光寺→瀬谷8福神の大黒尊天
縁起によると、はじめ孝徳天皇の白雉3年(652)に明光比丘尼が建てた庵で明光が亡くなり、その後、大同年間(806~810)に辨通が天台宗福昌山明光寺と称して寺にしたと云われています。また、弘安5年(1282)9月17日に日蓮上人がここに一泊し、その寺の住職文教は、教化を受けて改宗し、寺名も蓮昌山妙光寺と改め、日蓮上人を開山とし、自ら2世となりました。
旭区の川井町に日蓮大菩薩塔がありますが、これは当寺に宿泊した翌日18日に中原街道を通り、武蔵の国池上の郷の池上宗仲の屋敷(池上本門寺)に向かったと云う。しかし、同年10月13日に日蓮は死去しました。その供養塔です。
妙光寺は梵鐘や瀬谷の民話「石になった比丘さん」など話題豊富な寺です。
大黒天
烏帽子をかぶり、米俵の上に座っていて、左手に大きな布袋を持っています。右手には小槌を持つ全身真っ黒な福の神。ルーツはインドですが、青黒い体を持つ破壊と戦闘の神でした。中国を経由して日本に伝えられるうちに福々しい神に変化し、大国主命と同一視されるようになった。
牢場坂 板碑・五輪塔群
室町時代の頃、小田原北条の家臣で、相州東郡(旧鎌倉郡、高座郡)北部の守りに就き、深見城に威勢を張っていた藤原朝臣山田伊賀入道経光の設けた牢場が、鎌倉道沿いに置かれていたためにいつしかこの地名になりました。
海軍広場
上瀬谷通信施設は旭区上川井町と瀬谷区北町・瀬谷町に位置し、243haが在日米海軍の基地になっています。
かつて、この地域は日本海軍の倉庫施設があったが、戦後、米軍に接収され通信基地になりました。一時接収は解除されましたが、昭和26年再び接収されました。
現在では、米軍部隊の常駐はありませんが在日米海軍厚木航空施設司令部の管理下に置かれています。
施設は、事務所の囲障区域は立ち入り禁止になっています。
しかし、海軍道路沿いに桜が多く植えられ、お花見シーズンには、市民の憩いの場所になっています。450本の染井吉野が植えられ、お花見客が多く集まります。
海軍道路
環状4号線(通称海軍道路約3km)は滑走路用地として築造されました、そのため3kmにわたり一直線に南北に伸びています。当時海軍道路には、北門・南門の門柱があり警備も厳しかったようです。しかし、滑走路としては一度も使用されることなく、いまでは、桜の名所として開放されています。