港町・横浜の魅力ベイエリア散策

約6.0km 約9.300歩

散策コース

桜木町(集合)→日本丸→赤レンガ倉庫→海上保安庁資料館→大さん橋→象の鼻パーク→横浜開港資料館→横浜公園→関内駅(解散)



横浜町の成立

1.開港と共に成立

 安政6年(1859)神奈川(現在の横浜港)開港と共に、横浜村、中村、大田村、戸部村の一部が合併して横浜町が成立する。

2.横浜町とともに6町を設置

 横浜町の設置とともに横浜町内に駒形町、本町、北仲通、海辺通、南仲町、弁天通の6町が成立する。

3.群区町村編制法の施行

 群区町村編制法(明治11年7月22日太政官布告第17号)の施行により横浜町は、横浜区となる。この時横浜区には81の町があった。

 明治12年1月11日、横浜外国人居留地に30の町が起立する。

 明治17年7月10日、山手外国人居留地に26の町が起立する。

4.市制町村制の施行

 市制町村制(明治21年法律1号、2号 明治22年4月1日施行)の施行により、横浜区138か町は横浜市となる。


桜木町駅1872年(明治5年)、日本で最初に鉄道が開通した時に初代の横浜駅として開業した。その後、東海道本線の延伸に伴い「横浜駅」の名称を現在の横浜駅に譲り、1915年(大正4年)に「桜木町駅」に改称された。

 

エドモンド・モレル(Edmund Morel、イギリスの鉄道技術者で、お雇い外国人として日本の鉄道導入を指導した。

突貫工事の激務に肺結核を再発したモレルは、インドへの療養を目前に、明治4年29歳で死去した。横浜(桜木町駅)~新橋間(汐留)の本邦初の鉄道開通の一年前のことであった。

 日本人妻の「きの」も彼を追うように12時間後に没したと言われている。

夫婦の墓は山手の外国人墓地にあり一本の木で紅白の花を咲かせる「連理の枝」を持つ梅の木があったが関東大震災で消滅した。


日本丸メモリアルパーク

日本丸メモリアルパークは、横浜市西区のみなとみらいで最初に整備された公園である。

展示施設として帆船日本丸および展示ドック、海事博物館の横浜みなと博物館がある。日本丸と展示ドックは国の重要文化財に指定されている。

 日本丸

 日本丸は昭和5(1930)年に建造された練習帆船です。昭和59(1984)年まで約54年間活躍し、地球を45.4周する距離

(延べ183万km)を航海し11,500名もの実習生を育ててきました。

 昭和60(1985)年4月より、みなとみらい21地区の石造りドックに現役当時のまま保存し、一般公開をしています。船の生活を体験する海洋教室やすべての帆をひろげる総帆展帆などを行い、帆船のすばらしさ、楽しさを伝えています。


鉄道橋(現汽車道)

明治44年に開通した、横浜駅(現桜木町駅)と新港埠頭の横浜税関荷扱い所を結ぶ臨港鉄道の一部約500mを利用した海を渡る遊歩道。レールや橋梁(キョウリョウ)が当時を偲ばせる。

横浜市認定歴史的建造物。現在は汽車道と命名され、桜木町~新港埠頭間の遊歩道となっている。


 赤レンガ倉庫

横浜赤レンガ倉庫は、横浜港にある歴史的建築物である。明治政府によって保税倉庫として建設され、建設当時の正式名称は横浜税関新港埠頭倉庫。みなとみらい地区内の2街区にあたる。

2号館は1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に竣工。保税倉庫としての役割は1989年(平成元年)までに終えしばらく放置されていた。 2002年(平成14年)に、1号館は展示スペース、ホールなどの文化施設、2号館は商業施設となり、付近一帯は広場と公園を備える赤レンガパークとして整備され、横浜みなとみらい21地区の代表的な観光施設となっている。第45回BCS賞 (2004年) 受賞。 2007年(平成19年)、経済産業省による近代化産業遺産に認定。2010年(平成22年)、日本初の「ユネスコ文化遺産保全のためのアジア太平洋遺産賞」優秀賞受賞。


 海上保安庁資料館

 海上保安資料館横浜館は、日本を取り巻く周辺海域の現状と海上警備の重要性などを理解してもらおうと、20041210日に開館した。

20152月末現在まで、来場者250万人の来場者がありました。

 館内には、海上保安庁の業務や巡視船艇・航空機を紹介した パネルの展示と、20011222日、九州南西海域で発生した工作船事件において、「自爆・沈没した工作船、小型舟艇、武器」等を水深90mの海底から引き揚げ、保存・展示しています。

 不審船は巡視船に対して銃撃を開始し、ロケットランチャーも

使用してきた。海上保安庁は反撃に出たが、やがて22時過ぎに不審船は自爆し、そのまま海中へ沈んでいったそうだ。


鉄桟橋(テツサンバシ)~大桟橋

明治22年から29年にかけて建設された横浜でもっとも歴史のある埠頭です全長720mの鉄製桟橋が完成した。増え続ける輸入品に対応するため、イギリスのH・Sパーマーさんの案が採用され、鋼材はイギリスから輸入された。

現在の大桟橋の原型となりました。

大さん橋(おおさんばし)は、神奈川県横浜市中区にある横浜港の港湾施設。1894年(明治27年)に完成した鉄桟橋を前身とし、「税関桟橋」「横浜桟橋」「山下町桟橋」等のさまざまな名称があったが、その後、「大桟橋」に落ち着いた。

 大桟橋

 昭和39年(1964)の東京オリンピック開催を契機に、外航客船に対応する客船ターミナルの新設をはじめとした大改造を行い、本格的な客船ふ頭として横浜港に入港する客船を迎える横浜港の玄関となっています。

 建設後100年が過ぎ、構造的な老朽化が進んだことや本格的なクルーズ時代に向けての全面的な施設の改修を行うため再整備工事を行い、平成14年(2002)日韓両国で開催された2002FIFAワールドカップサッカー大会に合わせ、現在の新しい「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」をオープン、21世紀のクルーズに相応しい国際客船ターミナルとして、また市民や観光に訪れた皆様が港や客船に親しむことの出来る施設として、生まれ変わりました。

 その他、太平洋戦争後連合軍に接収されていた間は「サウスピア」と呼ばれ、明治の末頃から1970年頃までは「メリケン波止場」とも呼ばれていた。前身施設は名実ともに桟橋であったが、2002年(平成14年)に完成した現在の大さん橋は構造的には“桟橋”ではなく“岸壁”であり、平仮名混じりの「大さん橋」が正式な表記である。


象の鼻パーク

横浜の港はここ象の鼻地区から始まりました。

赤レンガパークと山下公園を結び、象の鼻地区の中央部を通っている「山下臨港線プロムナード」から海を眺めると、大さん橋国際客船ターミナルのつけねから左手方向へ延びている防波堤があります。この防波堤を上から見ると象の鼻に似ていることから、通称『象の鼻』と呼んでいます。

 開港150周年の平成21年6月2日(開港記念日)に象の鼻パークとしてオープンしました。

 

安政5年(1858)通商条約が、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの五か国と結ばれると、横浜では開港場の建設が急ピッチで進められた。こうして半農半漁の村であった横浜は急激に市街地へと変貌した。

 建設計画は幕府によってつくられ、幕府の役人や外国奉行や勘定方の役人が協議しながら進められた。このとき、運上所(今の県庁)を境に一方を『異国人町』、一方を「日本人町」と決めた。貿易都市にとって波止場は不可欠な施設であり、開港場には二カ所に波止場が建設された。

 一つは開港場の中心部(今の大桟橋付近)にあり、2本の突堤が築かれた。この波止場をイギリス波止場と呼び、海から見て左側の突堤で外国貨物が、右側の突堤で国内貨物が取り扱われた。

左側の突堤は慶応2年(1866)年に改築工事が行われ、現在の象の鼻のような湾曲した防波堤になった。

 一方、外国人居留地の前面にも波止場が築かれ、こちらはフランス波止場と呼ばれたが、この地域は関東大震災後大量のがれきで埋め立てられ、山下公園になった。

こうして、明治27年に大桟橋が完成し、明治32年新港埠頭の建設工事が開始された。


ジャックの塔→横浜市開港記念会館

塔の高さ - 約36m→完成 - 1917年(大正6年)

 横浜市開港記念会館は、東南隅に時計塔、西南隅に八角ドーム、西北隅に角ドームを配しています(1917年竣工)。

横浜開港資料館は、横浜開港百年を記念して実施された「横浜市史編集事業の資料を基礎に、横浜市民からの寄付を募り建設されたこの記念建造物は、昭和56年(1981)6月2日の開港記念日に開館しました。

 この地は安政元年(1854)の日米和親条約締結の地であり、また、旧館は旧イギリス総領事館(横浜市指定文化財)です。外観からお分かりの通り、東京駅などと同じ「辰野式フリークラシックスタイル」と呼ばれる建築様式です

 

3つの塔を見られるポイント

この3つの塔を一度に見られるスポットは限られており、全て巡ると願い事が叶う「横浜三塔物語」は有名な伝説。この3塔はいずれも先の第二次世界大戦をくぐり抜けて現存しており、いつしか船員たちが航海の安全を祈りこれを目印に入港したと言われており、「赤レンガパーク」「日本大通り」「大さん橋」の該当箇所3箇所をめぐることで、様々な角度から横浜3塔を楽しめる。その存在感に願い事を託す人々が、今日も横浜をめぐることだろう。

 

玉楠の木

中庭に植えられているタマクスの木はマシュー・ペリー来航時の記録画にも描かれており(当時の木は1866年の大火や関東大震災にて焼失したが、その度に根元から再び芽を出して元の美しい樹木に育っていった)横浜開港のシンボルとして知られており、開国博Y150のマスコットキャラクター「たねまる」もタマクスの木の精という設定となっている。


横浜公園

開園:明治9年2月〈総合公園)

面積:63,787m2

この公園は、横浜の中では山手公園についで2番目に古い公園で、日本人にも開放されていたものとしては日本最古です。現在の市庁舎隣にあり、横浜という都市の発展と共に歩んできた公園といえます。

在留外国人の生活環境改善を求めた条約に基づき、遊郭の跡地に整備が行われ、明治9年に開園、一般の人々にも開放されたため当時は「彼我(ひが)公園」といわれていました。明治42年には、公園全域が横浜市の管轄となり、横浜公園野球場は、昭和20年に接収され、米軍兵士専用の野球場のゲーリック球場と改称された。21年に日本人の使用が認められ、27年に接収が解除され、当時の平沼市長が命名した公園内の平和球場で高校、大学、ノンプロの野球試合が数多く行われる市営の平和球場となる。

53年には横浜スタジアムが開場し、横浜大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)の本拠地となった。昭和53年に横浜スタジアムが建設されたのを機に、園内の老朽化した諸施設を改築、広場が整備され、現在の形になっています。

1年を通じ人気のある横浜公園ですが、見物は何といっても春のチューリップでしょう。公園を彩る色とりどりの花は16万球にのぼり、様々なタイプの品種を見ることができ、開花の時期には多くの人々で賑わいます。

公園内には横浜の公園でもめずらしい水琴窟が日本庭園部分にある「蹲踞(つくばい)(そんきょ)」の下にあります。

地中に瓶を埋め、落下する水滴の音を反響させて楽しむ、庭園の技法でも高度なもので、その澄んだ音色は都会の喧噪を忘れさせてくれます。

横浜公園は平成21年2月に近代化産業遺産の認定を受けました。なお、当該公園用地は、国有地の無償貸付を受けております。


関内駅

 *1964年(昭和39年)5月19日:国鉄根岸線 桜木町~磯子間の開通時に、国鉄の駅が開業。

*1976年(昭和51年)9月4日:横浜市営地下鉄 伊勢佐木長者町~横浜間の開通時に、地下鉄の駅が開業。

*1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、国鉄の駅はJR東日本の駅となる。

  関内牧場

 昭和20/5/29の横浜大空襲で、関内は県庁、横浜正金銀行などの僅かなビルを残して一面の焼け野原となった。

 そこに8月米軍が進駐、21/9月まで中区の接収地は392haと全市の接収地の43%にも達した。鉄条網で囲まれた関内地区は蒲鉾兵舎やモータープールとなった。27年以降、接収解除が進んだが、関内の復興は遅れ、一面に雑草が生い茂る様を人々は「関内牧場」と揶揄した。

 


 

日本丸の誕生

 昭和のはじめ、船員を養成するための学校「東京高等商船学校」と「神戸高等商船学校」は専属の練習船「大成丸(2423トン)」と「進徳丸(2792トン)」を所有していました。

 しかし、函館をはじめ11校の公立商船学校の専属の練習船は総トン数1000トン以下で、海難事故が相次ぎ、民間船会社に依頼して航海実習をしている状況でした。

  どうにか共通の大型練習船が造れないかという強い要望があり、「日本丸」と「海王丸」の姉妹船が建造されることになりました。 1928(昭和3)年、文部省の提出した予算は1隻あたり91万円でした。

 


 

氷川丸 

 日本郵船が昭和5年竣工させた。総トン数11.622tの貨客船。

 山下公園の海岸に昭和36年(1961年)以来、横浜開港100周年の記念事業として山下公園に繋留され、ユースホステルとして再スタートした。

 

 太平洋戦争の 惨禍を生き延びた唯一の日本の優秀外航貨客船で、今や船齢80才近くとなり、昭和史を物 語る貴重な存在である。また、私企業が巨額の維持費を負担して、海上で保存している遠 洋航路の定期船としても、現存する世界最古の珍しい文化遺産であり、平成15年(2003年) には、横浜市指定文化財に指定された。

 


 

横浜ニューグランドホテル

 マッカーサーが直行

 鎌倉文士の大佛次郎は31(昭和6)年から約10年間、3階の一室を仕事場として使った。開化ものの代表作「霧笛」をはじめ「赤穂浪士」「幻燈」など多くの作品がここで生まれた。

 

1945(昭和20)年8月30日、コーンパイプをくわえて

 厚木飛行場に降り立った連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーがその足で直行したのがこのホテルの315号室だった。新婚旅行などで宿泊した思い出の宿だった。今から71年前の1945830日、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。昭和天皇が日本の敗戦を告げた玉音放送から15日後のことだった。

 戦後日本に絶対権力者として日本に君臨し、民主化を進める諸政策を断行したマッカーサー、飛行機のタラップに現れたマッカーサーの姿は日本人に鮮烈な印象を与えるものだった。

 

 マッカーサー元帥が食した食事は

 1、スケトウ鱈を牛乳で戻したムニエル。

 2、胡瓜に酢をかけたピクルス。の粗食であったため翌日大量の食料品がホテルに届いた。

 

ホテル・ニュウグランド発の料理。

 1、スパゲティナポリタン

 2、シュリンプドリア

 


 山下公園

 山下公園は、日本で最初の臨海公園として1930年(昭和5年)、関東大震災(マグニチュード7.9)の瓦礫を埋め立てて作られました。

 海への眺望、記念碑や歌碑など見どころの多い公園です。横浜ベイブリッジや港を行き交う船の眺めがロマンチック。

 童謡で馴染みの深い「赤い靴はいてた女の子」像や、在日インド人協会から昭和12年に寄贈された「インド水塔」、姉妹都市であるアメリカ・サンディエゴ市寄贈の「水の守護神」など、海外との豊かな交流を感じさせる記念碑が多いことでも有名です。

 また、山下公園は横浜のバラの名所でもあり、毎年春と秋の時期には、沈床花壇にたくさんのバラが咲き誇ります。

 


 マリンタワー

 横浜開港100周年の記念事業として、1961年(昭和36年)に建設された横浜のシンボル。当時は日本で最も高い灯台として、長く横浜の港を見守ってきました。高さ106m2層の展望フロア、360度の大パノラマから見える夜景は必見です。2009年にリニューアルオープンした

 


赤い靴の少女像

静岡県清水市有渡郡不二見村(現在の静岡市清水区宮加三)出身の「岩崎かよ」の娘・「佐野きみ」(1902年(明治35年)7月15日 - 1911年(明治44年)9月15日)がその赤い靴を履いていた少女のモデルとされた。その「定説」は次のとおりである。

「岩崎かよ」は未婚の母として「きみ」を育てていたが、北海道に渡り、鈴木志郎と結婚する。きみが満3歳の時、鈴木夫妻は、社会主義運動の一環として当時注目されていた北海道の平民農場へ入植する。しかし、開拓生活の厳しさもあり、かよは義父・佐野安吉の仲介により、娘・きみの養育をアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に託すことにした。やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になるが、その時きみは

結核に冒されており、アメリカに連れて行く事が出来ず、そのまま東京・麻布の鳥居坂教会の孤児院「永坂孤女院」に預けられてしまう。

きみは孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなったという。母親の「かよ」は、「きみ」がヒュエット夫妻と一緒にアメリカに渡ったものと思いこんでいて、きみが東京の孤児院で結核で亡くなったことは知らされないまま、一生を過ごした。


横浜市歌

1909年(明治42年)7月1日に行われた、横浜港の開港50周年記念祝祭にて披露されて以来、市民に歌い継がれています。

 作詞は森林太郎(森鴎外)、作曲は、当時東京音楽学校(現、東京藝術大学)助教授だった南能衛(よしえ)氏です。

現在も市立の小学校では、校歌とともに歌唱指導されています。

 開港記念日(6月2日)や卒業式、市大会などの行事で、演奏・斉唱されています。


横浜ベイブリッジ(よこはまベイブリッジ)

1989年(平成元年)9月27日に開通した神奈川県横浜市にある長さ860m(中央支間長460m)の斜張橋(吊り橋)である。

東京港方面と横浜港を結ぶ港湾物流の一端を担うことにより、都市部の渋滞を緩和する重要な輸送路である。


大正・昭和の洋風建築をめぐる横浜3塔物語

現在は都市開発が進み、高い建物も増えた横浜だが、この街には昔ながらの建物がまだまだ多く現存する。関内・日本大通り地区の塔のある建物はトランプになぞらえ、昭和初期に外国船員がトランプのカードに見立てて呼んだことが由来と言われています。

神奈川県庁本庁舎“キング”、横浜税関“クイーン”、横浜市開港記念会館“ジャック”の「横浜三塔」と言われ、古くから愛されている。3塔を一度に見られるスポットを巡ると願いが叶う「横浜三塔物語」は浜っ子には有名な伝説だ。

 

キングの塔→神奈川県庁本庁舎→横浜市中区日本大通1

塔の高さ - 約49m→完成 - 1928年(昭和3年)

 神奈川県の重要な拠点、県庁本庁舎。県庁に相応しい重厚感ある洋風建築の中にも日本趣味が見える和洋折衷の帝冠様式の走りと云われる。また、細部には幾何学的な装飾模様が随所に用いられ、巨匠フランク・ロイド・ライトの影響によるライト様式や、直線で構成されるアールデコ風の装飾が見て取れ、建築史的にも趣深い建物のひとつと言えるだろう。日没から22時までの間にはライトアップが美しい。

 一目で日本的と認識できる事から、戦時下の満州や中国などで流行し「軍服を着た建物」との異名を付けられました。

現在では、現存する建物も少ないため、この本庁舎の価値は非常に高いのです。

 帝冠様式とは、→鉄筋コンクリート造りの建造物に和風の屋根をかける様式で装飾にも和風の趣味が取り入れられる様式です。

 

クイーンの塔→横浜税関本関庁舎→市中区海岸通1-1

塔の高さ - 約51m→完成 - 1934年(昭和9年)

 白くスマートで、青緑色のドームを持つ高い塔が「クイーン」、横浜税関だ。イスラム寺院風のエキゾチックな雰囲気を持つこの建物は、海外からの輸出入を管理・取り締まる税関として機能している。完成当時は横浜で最も高い建物であったクイーンは、昨今の都市開発で高いビル群が立ち並ぶ今日に於いても独特の存在感を誇っている。

 現在の塔はキングと同じ4代目ですが、昭和初期の3代目の時にクイーンの塔がお目見えしました。

当初、高さ47mで設計されたのですが、キングの49mより低い事から51mに変更されたのです。

これは、神奈川県庁=県に対し、横浜税関=国というプライドに依るもの。当時の世相が感じ取れるエピソードですね。

 

ジャックの塔→横浜市開港記念会館→横浜市中区本町1-6

塔の高さ - 約36m→完成 - 1917年(大正6年)

 横浜市開港記念会館は、東南隅に時計塔、西南隅に八角ドーム、西北隅に角ドームを配しています(1917年竣工)。

横浜開港資料館は、横浜開港百年を記念して実施された「横浜市史編集事業の資料を基礎に、横浜市民からの寄付を募り建設されたこの記念建造物は、昭和56年(1981)6月2日の開港記念日に開館しました。

 この地は安政元年(1854)の日米和親条約締結の地であり、また、旧館は旧イギリス総領事館(横浜市指定文化財)です。

外観からお分かりの通り、東京駅などと同じ「辰野式フリークラシックスタイル」と呼ばれる建築様式です

 

3つの塔を見られるポイント

この3つの塔を一度に見られるスポットは限られており、全て巡ると願い事が叶う「横浜三塔物語」は有名な伝説。この3塔はいずれも先の第二次世界大戦をくぐり抜けて現存しており、いつしか船員たちが航海の安全を祈りこれを目印に入港したと言われており、「赤レンガパーク」「日本大通り」「大さん橋」の該当箇所3箇所をめぐることで、様々な角度から横浜3塔を楽しめる。その存在感に願い事を託す人々が、今日も横浜をめぐることだろう。


 

港崎(ミヨザキ)遊郭

 

開港に伴い、幕府の外国奉行は大田屋新田の一角15.000坪を貸与して、遊郭の建設を認可、安政6年(1859)に港崎遊郭が開業した。鶴亀楼や五十鈴楼を筆頭に大小100軒近い遊女や茶店が並び500人を超す女たちが妍を競った。

 

1866年の慶応大火で焼失し翌年関外に移転。跡地に近代的公園(現・横浜公園)が整備された。

 

 岩亀楼の喜遊

 文久2(1862)年1123日、横浜港崎(みよざき)遊廓の岩亀楼(がんきろう)の遊女喜遊が「アメリカ人アボット」を客とするのを拒否、武士の作法による切腹をして果てました。その辞世が攘夷の気分をもりあげ、世に喧伝されていきます。

 

            露をだに いとふ倭の 女朗花
             ふるあめりかに 袖はぬらさじ

 

 この辞世とともに次のような内容からなる一通の遺書があったといわれています。

 「いかで日の本の女の操を、異人の肌に汚すべき。わが無念の歯がみせし死骸を、今宵の異人に見せ、かかる卑しき遊女さへ、日の本の人の志はかくぞと知らしめ給ふべし」

 

 喜遊の死体は、翌24日早朝に奉行所の調役杉浦竹三郎、刑部鐡太郎、長岡鎭太郎による出張検死後、焼却、遺骨はどこに埋められたか不明と言う。

 


 

ヨコハマヒザクラ→横浜公園の中にある

 横浜の名のついた野生植物には、ヨコハマ竹・ヨコハマイノデ・ヨコハママンネングサの3種が知られているが、新しくヨコハマヒザクラが創りだされた。兼六園熊谷を母方としてカンヒザクラを父方として昭和47年頃港北区の白井勲さんが作りだした。紅紫色ピンクの大輪でひときわ目立つ存在です。開花は4月上旬で染井吉野より早く咲く。

 

森林総合研究所(茨城県)によると、100年ぶりに桜の新種が発見され、熊野地方に広範な自生域があることから「クマノザクラ」と名付けた。同じ野生種の「ヤマザクラ」より二三週間早く咲くと云う。

 


 

日本大通り

 明治12年、日本で初めての西洋式街路として英国人技師ブラントンの設計により完成した。車道幅12m、その両側の植樹帯・歩道幅も各12mで、広い空間は防火帯を兼ねた。

 

関東大震災後に車道が22mに拡幅され、名物の銀杏並木もこの時に植えられた。平成14年、車道を9mになりその分歩道を広げ、ブラントンの当初の設計に近い形に整備された。現在の日本大通りの総延長は430m。

 


伊勢佐木町

伊勢佐木町と言う名称は少し珍しげな感じでもあるがそれにはちゃんと訳がある。明治7年の1874年に今でも繁華街である

伊勢佐木町の名称が制定された。町名の由来は2説あり、

 1説は、最後に神奈川奉行の勤めを果たした依田伊勢守と佐々木信濃守の2人の名前から取った説である。

 2説は、市街化開発に貢献した伊勢屋文蔵と佐々木治平の2人の名前から取ったという説である。

 1873年までは伊勢佐木町という名称ではなく吉田新田と庶民から言われていた。少し遡るが、伊勢佐木町という町名が付く前の吉田新田と言う名称は吉田勘兵衛良信の名前に因んで付けた地名である。


 

「住みたい街」横浜1位

 リクルート住まいカンパニーが運営する住宅情報サイト

 「SUUMO」の「住みたい街ランキング関東版」で、横浜がトップに輝いた。東京都外の街が選ばれるのは2010年の調査開始以来初めてという。交通や商業の利便性、おしゃれで洗練されたイメージ、資産価値と云った街の魅力要因を幅広く満たしている点が好感された 

 

2位は渋谷区恵比寿。3-吉祥寺 4-品川 5-池袋 6-武蔵小杉武蔵小杉

 


 

横浜公園野球場

昭和20年に接収され、米軍兵士専用の野球場のゲーリック球場と改称された。21年に日本人の使用が認められ、27年に接収が解除され、当時の平沼市長が命名した公園内の平和球場で高校、大学、ノンプロの野球試合が数多く行われる市営の平和球場となる。

 

53年には横浜スタジアムが開場し、横浜大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)の本拠地となった。