散策コース
三ツ境駅スタート⇒白姫神社⇒長屋門公園⇒谷戸の道祖神⇒ねこ塚⇒賽の神⇒勘定場跡⇒善部神明社⇒妙蓮寺⇒希望ヶ丘水の森公園⇒希望ヶ丘駅ゴール
①三ツ境駅
②白姫神社
白姫神社は蚕の神が祭神であり、通称「お白様」と敬称されています。阿久和養蚕組合の守り神として、明治42年(1909年)11月に伊勢神宮外宮の衣の神を奉戴し、その御神体を蚕の神としました。
その後、昭和32年(1957年)に養蚕業の衰退により阿久和町から三ツ境のこの地へ遷座しました。
現在では、付近の住民から衣の神として信仰が篤く、快癒・息災出世の祈願も多いと言われています。(瀬谷区役所掲示より)
④谷戸の道祖神
道祖神は昔から村の辻や出入り口となる道端に祀られている石仏で、疫病、災難などが他方から入らぬように守る神さまです。
阿久和の谷戸は村の一番北に位置し、すぐ東は武蔵と相模の国境を隔てて、武州春の木や善部、榛谷の村々に通じる最も近い出入り口でした。
またこの外、瀬谷区各所に多くの道祖神、地神塔、庚申塔など沢山の石仏があります。 (瀬谷区役所)
⑤ねこ塚
石碑「妙法門 法妙真信女」元禄7年(1694)。
口伝によると元禄の頃、巡礼中のおばあさんが善部の村を通りかかり、飢えと疲れのため亡くなってしまった。
一匹の猫がおばあさんに寄添って鳴いていましたが、間もなく後を追うように死んだ。
村の人たちは、倒れた場所におばあさんと猫を埋め、塚と石碑を建てて霊を弔った。
その後、地元の人たちが愛猫が死んだ時、ここに埋葬するようになり、
「ねこ塚」と呼んだ。現在の石碑は、横浜旭ロータリークラブが寄贈したものです。
⑥賽の神
神尊霊 明和4年(1786) 善部願主惣氏子世話人 権右ェ門
主要な道から集落(里)に入るには脇道を下っていくことになるが、村の辻や出入口になる道端には、必ず石仏・石塔などが在った。
これらは、村(里)の外部から厄病や災難、悪人などが入ってこないよう祈ったものであり、また村(里)から出立する人の旅の安全を祈願したもので、いわゆる道祖神であった。村境におかれ、良縁・出産・夫婦円満の神でもあった。
[どんどん焼]
左義長(さぎちょう)のことで、どんと焼き、賽灯焼き等、地域によって呼び方は異なるが、1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅(三色団子も)を食べる、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくと、その年の病を除くと云われている。
また、書き初めを焼いた時に、炎が高く上がると、字が上達すると云われている。道祖神の祭りとされる地域が多い。
今宿神明社の「どんと焼き」には1000人もの人が集まり、小高神明宮は斉灯焼(さいとやき)と云われている。
⑦勘定場跡(善部町67)
江戸時代初期から勘定場と呼ばれていた所です。
江戸時代、善部一帯を治めていた領主は、毎年暮れになると出納役人(会計を扱う役人)を従えて館から出張してここにきました。
そして農民が年貢として持って来た米俵を勘定した後に場内の倉庫に納めたため、勘定場と呼ばれていた所です。当時は、区内各地にこの様な勘定場があったと思われますが、現在ではここにしかその名称は残っていません。
なお、二俣川から西南方にいたるこの善部谷村一帯を支配した初代領主は宅間治部小輔規富(たくまじぶしょうゆうのりとみ)で、慶長6年((1601)徳川氏から賜ったものといわれています。領主の館は現在のコンビニの辺りにあったと思われます。
⑧善部神明社
祭神は天照大神で、寛永12年(1635)地頭・宅間伊織忠次が創建。
江戸時代、神社は寺の管理下におかれるのが一般的だったが、この神社は村が管理する「村持」であった。
善部一帯は、古くは榛ヶ谷(はんがや)庄に属し神奈川領になっていて、庄全体の戸数は152戸で、膳部谷・榛ヶ谷・本宿・二俣川の4村があった。隣の宮は稲荷社です。
[鳥居]
鳥居の起源ははっきりわかりません。他国からのものあると言う説と、日本古来のものであると言う説とがある。「鳥が居やすい」「通り入る」から付けられたとか諸説あり、
天照大神が天岩戸(あまのいわと)に隠れたときに、大神のお出ましを願い、長鳴き鳥を止まり木で鳴かせたのが鳥居の起源だとも云われている。
また、鳥居は神明鳥居系と明神鳥居系に大別される。神明鳥居は和洋建築で基本的に笠木が直線、額束(がくずか)がない。
明神鳥居は柱の傾斜(転び)や頂部の反り返り(反り増し)など曲線を配した作りになっている。多いのは、明神鳥居のほうですが、細部では異なることも多く同一のものは無いといってもいいくらい鳥居は千差万別です。
お稲荷さんの鳥居は丹塗り(ニヌリ)の赤い色は、耕作に適した、春の暖かさや、明るい陽気を招くとされる。
⑨妙蓮寺
日蓮宗の寺で、本尊は大曼荼羅(大日如来をはじめとする諸仏の像を絵画として表現したもの)。寛永5年(1628)、2代目地頭・宅間伊織忠次が名主・和田四郎左衛門に命じて建てさせた。
市認定名木・古木のイトヒバ・イヌマキがある。
⑨-1[曲題目(県民俗無形文化財)]
安政年間(1854~59)、鎌倉竜口寺の信者であった相州・片瀬の伝兵衛が近隣の日蓮宗寺院に伝えたとされるが、現在ではこの寺にしか残っていない。
長老男女(地取り)がうちわ太鼓を敲きながら、南無妙法蓮華経の七字の題目に11通りの節をつけて歌い、着飾った稚子10人が本堂の雛段に座って、両端に赤い鹿毛の房の付いた綾バチ1本または2本で紙の太鼓を敲く。バチの振り方は24通りあると云う。
⑨-2[妙蓮寺と和田義盛] 〈和田義盛碑から読み解く〉
三浦義明の長男・義宗の息子が和田義盛で、三浦義明は重忠公の母方の祖父です。
源頼朝の有力な御家人和田義盛は、北条氏の権力争いの中で、和田の乱(1213年)を起こし北条義時に滅ぼされた。
当時は族滅と云って一族皆殺しの運命にあった。
和田町には、和田稲荷や、真福寺(関東36不動巡り4番札所)は和田義盛の建立と云われ、和田駅、陣が下渓谷等 由緒ある地ですが、和田義盛の公碑が妙蓮寺にあるのは何故か意外です。公碑の側面に、その由来が記されています。
義盛が討たれた後、八男義国が幼少の為見逃されたか、伊賀の国に引きこもり、何代かを経て「義久」の代になって愛甲郡に移り、更に、浅間明神の夢枕の告示で、善部の谷戸に移住したとある。(1539年室町時代後期)義久の子「義貴」は善部で地域に貢献し、名主にまでなり、和田四郎左衛門宗蓮と名乗った。この頃、領主の宅間忠次がこの名主に妙蓮寺の造営を命じたとされる(1628)。
義久が善部に来てから388年たった大正15年(1927)、子孫一族20名が連名で「南無妙法蓮華経」の供養塔を兼ねた公碑を建立し「和田の後胤(こういん)ここにあり」を名乗ったとされる。
碑文には、「この義久を当初一門の初祖とする」など意味深長な表現もあり、義盛が討たれて以来、715年もの長い雌伏(シフク)の期間があるだけに謎も多いが、和田家一門は檀家として墓標も多く見受けられる。
⑨-3[妙蓮寺と宅間家]
徳川家康が1590年江戸城に入って以降、旗本であった宅間治部少輔規富は地頭として、上膳部(現在の善部)と下膳部(現在の二俣川、今川)の広い領土を知行地として与えられていました(1601年)。
そして1615年、本村の三仏寺を創建し、宅間家の菩提寺、一族歴代の墓所と定めた。その子、2代目の地頭、宅間伊織忠次は1628年善部に妙蓮寺を立てました。更に、1631年本村町の神明社を1635年善部町の神明社を次々に建てました。
忠次は、1636年に没しますが、三仏寺の墓に納められています。
妙蓮寺の本堂の左側に、忠次の正室の立派な墓標があります。
夫婦別々、しかも宗派も違い、疑問が残る。
⑨-4[鬼子母神]
妙蓮寺の開山は、雑司ヶ谷の本山法明寺(ほうみょうじ)12世日暁上人で、隠居寺として建てた。法明寺は、鬼子母神で有名な寺です。
夜又(やしゃ、古代インド神話に登場する女神・鬼神)は、千人の子を産み、他人の子を奪い食したため、釈迦が戒めに最愛の末子を隠した。
彼女は半狂乱になって世界中を7日間探廻ったが見つけられずに、釈迦に助けを求めた。釈迦は子を失う親の悲しみを悟らせ、仏法に帰依させた。こうして彼女は仏法の守護神となり、安産・子育ての神となった。
石塔の文字の「鬼」の「ツノ」が無い。
⑨-5[素子堂(そしどう)]本堂左には宅間伊織忠次の正室の立派な墓がある。夫婦別墓か?
⑨-6[山門]
山門は「赤門」と呼ばれるものですが、寺創設時のものではなく、寛政元年(1789)寺の下に在った和田家の門を移築したもので、和田家の紋(マルに三)が入っている。
門の位置は本堂の正面を少し外してあり、弓矢で本尊を狙いにくくしたものだと云う。
⑩希望ヶ丘水の森公園
公園内の湧水は、二俣川の源流の1つです。
源流となる湧水が市街地に残されているのは珍しく、貴重な環境になっ
ている。
夏季には、水源の周りには、「ヘラオモダカ」の水草が生茂っている。