散策コース
山手駅→根岸外国人墓地→YC&AC→本牧山頂公園→本牧神社→三溪園(解散)
根岸外国人墓地
山手外国人墓地が手狭に成った為1880年(明治13年)に作られた。
現在20ヶ国、約1,200人が眠っている。
2011/09/29 - 外国人居留地があった横浜には4ヶ所の外国人専用墓地がある。特に有名なのが観光名所としても知られる山手の外国人墓地だが、他には保土ヶ谷区狩場町にある英連邦戦死者墓地、中区大芝台にある中華義荘(南京墓地)、そしてもう一ヶ所がJR根岸線山手駅に程近い根岸外国人墓地だ。
ここには「数百にも及ぶ混血嬰児(嬰児とは生まれたばかりの赤ん坊のこと)の遺体が遺棄されているのではないか?」と言う噂話しが囁かれている。その噂話しの根拠は、「以前、数百にも及ぶ木で作った白い十字架が、びっしりと墓地に立てられていたから」というものであるようだ。
現在でも、この墓地には朽ちかけた白い十字架の残骸が数個残っている
☆YC&AC
ヨコハマ・カントリー・アンド・アスレチック・クラブは1868年(明治元年)に我が国初めて創立した
外国人のスポーツクラブ。当初は現在の横浜公園に 有ったが1912年(明治45年)に、ここに移った。
開港初期、居留地の外国人のためのスポーツクラブとして始まった。
公式サイトによると、創立は明治元年(1868)。YCC(横浜クリケットクラブ)として発足する。
明治27年(1884)には居留地の幾つかのスポーツクラブを併合、YCAC(横浜クリケット&アスレチッククラブ)と改称。
大正元年(1912)に現在地(中区矢口台。旧根岸町の一部)へ移転、新生YCAC(横浜カントリー&アスレチッククラブ)となった。
YCACは日本における西洋スポーツの黎明期に、幾多の足跡を残してきた。
野球界で最初の日本人・外国人の交流試合は明治29年(1896)、YCAC対旧制一高(現東大教養学部)ベースボール部。ラグビー界で最初の交流試合は明治34年(1901)、YCAC対慶応義塾蹴球部(ラグビー部)。KR&AC(神戸レガッタ&アスレチッククラブ)との定期戦は、日本おいてクラブスポーツの対抗戦の在り方を示すこととなった。
☆本牧山頂公園
戦後このあたりは接収され、返還後1998年(平成10年)に開園した。
自然豊かな広大な公園。四季折々に咲く花と360°広がる眺望も素晴らしい。
米軍横浜海浜住宅地区が1982年3月31日までに返還されたことから、跡地を横浜市が公園として整備し、1998年に開園した。
なだらかな丘の上に広がる公園は、見晴らしが良く、横浜港や横浜ランドマークタワーなどの町並みから房総半島、丹沢山地や富士山など遠くまで望むことができる。第一期、第二期と場所が分かれている。
☆本牧神社
かつては本牧12天と呼ばれていた本牧一帯の総鎮守。
1993年(平成5年)に市内で最も大きいという権現造りの社殿完成と共に現在地に遷座。
毎年8月上旬に行われる県無形民族文化財の神事”お馬流し”は450回を越えた。
「お馬流し」
本牧神社の「お馬流し」神事は、永禄9年(1566年)から400年以上も受け継がれており、現在、神奈川県無形民俗文化財、及び神奈川県民俗芸能五十選に指定されています。「お馬さま」とは、茅(カヤ)で作った馬首亀体(=首から上は馬で胴体は亀のかたち)です。
このお馬さまにあらゆる厄災を託して本牧の沖合い数キロの海上に流し去るのがこの神事の趣旨です。一旦放流したお馬さまが陸地へ還着することを極度に恐れるため、潮の干満を重視します。
創設時期については諸説がある。 本牧神社由緒書によると、建久2年(1192年)、鎌倉幕府を開設した源頼朝が、鎌倉から鬼門の方角である北東にあたる本牧の地の鎮護のために朱塗厨子を奉納したことが始まりであるとしている。
江戸時代に本牧神社の別当寺であった多聞院の由緒書によれば、弘長三年(1263年)元旦に本牧の海岸に漂着した大日霊女命の像を祭ったことが始まりであるとしている。
新編武蔵風土記稿では、永禄2年(1559年)1月8日に、本牧村の漁師松本次郎左衛門が漁をしていた際、網にかかった十二天の像を本牧に隣接する北方の若宮八幡宮に奉納し、後に本牧の総鎮守にしたとされている。
本牧神社(旧称・本牧十二天社)は旧来、本牧岬の先端(現本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座し、巨古木蒼然たる杜に囲まれ、鳥居の脚元には波濤打ち寄せる風光明媚な鎮守様でした。
その様子は江戸名所圖絵にも「本牧塙 十二天社」として描かれ、江戸湾を往来する廻船からは航海安全の神、地元民からは生業の守護神と崇められ、八百年以上の永きに亘り本牧の地に鎮座して人々のあつい信仰を受け続けていました。
先の大戦において、横浜は大空襲の惨禍により市街の多くが焼け野原となりました。更にこの本牧地区は、終戦直後の昭和21年から、二十三万坪に及ぶ進駐軍の強制接収に遭い、以来、平成5年までの47年間、当神社も往古の境内地を失って本牧町二丁目への仮遷座を余儀なくされ、多くの氏子共々、苦難の時期を過ごしてきました。
米軍の接収が解除とともに、返還地域一帯は横浜市による区画整理事業が行われ、その結果、当神社の境内地は従前の「本牧十二天」ではなく、現在の「本牧和田」に換地されることとなりました。
こうして50年近くの長い間、仮遷座を忍ばれながら氏子とともに苦楽を共にされた大神様の御神恩に感謝の誠を捧げるべく、氏子崇敬者の浄財を募って御造営されたのが現在の御社殿です。まさに本牧神社の戦後の歩みは「ハマの戦後復興史」そのものと云えましょう。
大日靈女命は日本書記に天照大御神の別名として大日靈女貴神(おおひるめむちのかみ)として御名が記されていますが、当神社に於いては古くより大日靈女貴命様の御名で手厚くお祭りされています。
☆三渓園
三溪園は生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪によって、1906年(明治39)5月1日に公開されました。175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)
東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902年(明治35)頃から造成が始められ、1914年(大正3)に外苑、1922年(大正11)に内苑が完成するに至りました。
三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「神輿振」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれました。
その後、戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至ります。
重要文化財の建物が点在する日本庭園
明治末から大正時代にかけ製糸・生糸貿易で成功した岐阜県出身の実業家・原三溪(原富太郎)によって造られた庭園が、神奈川県横浜市にある三溪園。横浜駅から南東方向に6~7kmの東京湾に面した場所、かつて「三之谷」と呼ばれた起伏に富んだ谷あいの地に造り上げられた、
175,000平方メートルという広大な敷地面積を誇る日本庭園だ。国の重要文化財の指定を受けている建造物10件12棟など、園内には京都、鎌倉、和歌山、岐阜などから移築された17棟の建物が、様々な草木と共にバランスよく配されており、春夏秋冬、それぞれの季節に、「日本の美」を感じることの出来る場所だ。
園内は、原三溪が私庭としていた内苑と、梅林や展望台のある外苑からなり、内苑には、京都東山の西方寺から移築された1708年頃築の御門、三溪が隠居所として夫人と暮らした数寄屋風建築の白雲邸、1649年築の重要文化財・臨春閣ほか、同じく重要文化財である旧天瑞寺寿塔覆堂、聴秋閣、天授院、月華殿、春草廬(しゅんそうろ)などが点在、外苑には旧燈明寺三重塔や、現存する合掌造では最大級の民家・旧矢箆原家住宅、旧東慶寺仏殿、横笛庵などが点在する。