コース
天王町駅→旧帷子橋跡→江戸方見附跡→橘樹神社→古町橋→旧古町橋跡→ヨコハマビジネスパーク→神戸神明社→香象院→見光寺→高札場跡→金沢横丁跡→本陣跡→脇本陣跡→一里塚→松並木→上方見附跡→大仙寺→遍照院→大蓮寺→天王町駅(解散)
旧帷子橋跡(天王町駅前公園)
新町橋とも云われていた帷子橋は、保土ヶ谷宿の東の入り口、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた橋で、橋の長さは15間(27m)という大きなもので、当時保土ヶ谷宿を代表する風景となり、初代広重の東海道53次シリーズとして描かれ有名になりました。
江戸初期の東海道は旧古町橋跡を通るルートであったが、
慶安年間(1648年~1652)、徳川幕府はこの場所を通る新道を開通させた。同時に、保土ヶ谷宿の整備のため、元町橋にいた苅部家等の住民を保土ヶ谷町に移住させるとともに、南側の岩間町住民をも移住させ、神戸
(ごうど)、岩間、帷子および保土ヶ谷町が一体となった保土ヶ谷宿を成立させた。
この付近は帷子川の河口で、河岸(かし、船着き場)があって、帷子川流域から集められた薪や炭を船で江戸に、また相州小麦を野田の醤油屋に原料として運んでいた。
神奈川湊は、袖ヶ浦(現在の横浜駅付近)を船舶の停泊地とし、神奈川宿の神奈川町・青木町と保土ヶ谷宿の帷子河岸の2カ所が荷揚場であった
宝永4年(1707)の富士山噴火の降灰の影響により、河床が浅くなって、河岸としての適性が衰え、帷子川沿いに集積される物資の荷揚場は東隣の芝生村へ移っていった。
江戸方見附跡 「東海道文間延絵図」によれば、芝生の追分から、国道16号線を超え天王町に至る途中に保土ヶ谷宿の江戸方見附がありました。 「見附」は本来、城の一番外側にあった番人のいる城門又は警備、見張りの意味がありましたが、後には、形式的なものになり、単なる宿場の入り口、玄関という意味で使われるようになりました。 旧東海道の各宿では、江戸川の出入り口にあるものを「江戸方見附」、京(上方)側にあるものを「上方見附」と呼んでいました。 |
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橘樹神社 祭神はスサノウの命
鎌倉時代初期、文治2年(1182)、源頼朝の天下平定を祝い、厄除け、子孫繁栄、を祈願して、京都祇園社(現八坂神社)から分霊を勧請して創建されたと伝わる。
古くは祇園社、江戸時代には牛頭天王(ゴズテンノウ)社、明治初年に橘樹社、
大正10年に橘樹神社になった。
ちなみに、天王町という町名、駅名は、昔の神社名「牛頭天王社」の天王から命名されたと云う。
本殿裏手には、横浜最古と云われる青面金剛庚申塔(寛文9年・1669年)がある。
旧古橋町跡
この場所には、江戸時代初期の東海道(古東海道)が帷子川を渡る「古町橋」(帷子橋)がありました。
慶安年間(1648~52)の新道の開通にともなって架けられた旧帷子橋は、これに対応して「新町橋」と呼ばれるようになりました。また、昭和38年帷子川の改修工事が行われ川の流路は北側に変更されました。それにともない、現在の古町橋は昭和41年に、ここから約120m北に架設されました。
YBP(横浜ビジネスパーク)
この一帯は、大日本麦酒、日本硝子の工場跡地です。
昭和初期の頃は、日本硝子の工場は国内最大規模の製瓶工場
でした。昭和60年工場を埼玉県に移転し、跡地は野村不動産により「横浜ビジネスパーク」として再開発されました。
神明社 その昔、保土ヶ谷の地は榛谷と呼ばれていました。保安3(1122) この地を開拓した豪族が伊勢神宮の神領地として寄進したことから「榛谷御厨」と呼ばれるようになりました。この御厨から毎年白布30疋(60反)が伊勢神宮に献上されたと云います。 神明社は、天禄元年(970)の創建といわれ、三度の遷座(武州御厨の庄内である榛谷の峰に来臨し、川井、二俣川、下保土ヶ谷の宮林ミヤバヤシへと三遷)の後、嘉禄(カロク)元年(1225)現在の神戸の地に宮造りを起こし、榛谷御厨八郷(現在の保土ヶ谷と旭区と周辺区の一部)の総鎮守として広大な社領が与えられ、宮司以下数十人が仕え隆盛を極めたと云われています。 |
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香象院
香象院(コウゾウイン)高野山真言宗である東福寺(西区)の末寺として天正11年(1583)創建。開山忠秀法院創建不詳
香象院は、四国88ヶ所遍路巡礼にならって、川崎、横浜、逗子、鎌倉、藤沢の88の寺院を霊場として設立した「新四国東国88カ所霊場の26番札所です。
江戸時代末期、保土ヶ谷では最も大きな寺子屋があり、明治6年に保土ヶ谷小学校の分校となりました。
墓地には寺子屋の先生であった安達清墨先生と保土ヶ谷の郷土史研究に尽力された磯貝正、磯貝長吉両先生の墓があります。
又、昭和8年に磯貝正先生によって発見された紺紙金泥の古写経があります。大般若経第560巻で、鎌倉時代初期のものとされています。
金泥→ニカワをといた水に金粉を混ぜたもの。
見光寺
名前は本尊の光り輝く阿弥陀如来像の姿から見光寺と名付けられました。
創建は寛永6年(1629)。
開基は保土ヶ谷の住人で熱心な浄土宗の信者、茂平夫婦です。
境内の墓地には夫婦の墓地があります。
又、保土ヶ谷出身のコラムニストで昭和53年に日本推理作家協会賞を授与している。
青木雨彦の句碑が本堂の前に建てられています。
「塗箸の剥げて小芋の煮ころがし」雨彦
助郷会所跡
宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷を云い、指定された村を助郷村と云います。助郷は東海道が整備されてから交通量が増加してきた17世紀半ばころに次第に制度化されていきました。享保10年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村はおよそ40か村で現在の保土ヶ谷区内のみならず、旭、西、中、南、港南、磯子、戸塚の各地域に及びました。こうした助郷村は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所と云う事務所を設けていました。
問屋場跡
宿場の公的な業務の内、幕府の公用の旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)や幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、
大名行列の宿泊の手配などを担っていた。
宿場の中で最も重要な施設の一つです。
宿場ではこの業務を務めるのに充分な数の人足と馬を用意するように定められていました。
問屋場には、問屋を筆頭に年寄、帳付け、馬差し、人足差しなどの宿役人が詰めていました。
高札場跡
宿場の高札場には、一般の法令等に関するものだけでなく、隣の宿場までの荷物の運搬料金や旅籠屋の宿泊料等を細かく記載した高札も掲出されました。
宝暦13年(1763)に普請された保土ヶ谷宿の高札場は幅2間半(約4.5m)高さ1丈(約3m)の規模でした。
金沢横町道標4基
旧東海道の東側、通称金沢横町に4基の道標が並んでいます。向かって右から1番目は、天明3年(1783)の建立で「円海山之道」「かなさわ・鎌倉へ通り抜け」と刻まれています。2番目は天和2年(1682)の建立で、正面に「かなさわ・かまくら道」左側に「弘明寺道」と刻まれています。
3番目は、文化11年(1814)の建立で左面には「梅の名所杉田への道」という其爪の句が刻まれています。4番目は弘化2年(1845)の建立で「疱瘡神富岡の芋大明神への道」と刻まれています。
金沢道には、円海山、杉田、富岡など信仰や観光の地がありました。4基の道標はこれらの場所へ旅人を案内したのです。
本陣跡
慶長6年(1601)正月、東海道に伝馬制度が定められ、家康より「伝馬朱印状」が「ほどがや」あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。東海道を往来する幕府の公用役人、大名、勅使、公家、及び宮門跡などは、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣豊前守康則の子孫である苅部家が代々務めています。同家は問屋、名主を兼ねるなど、保土ヶ谷における最も有力な家で、安政6年(1859)横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年10月、本陣は廃止され、姓を軽部に改め現在に至っています。
本陣跡近くの大仙寺が苅部家の菩提寺です。
脇本陣跡
本陣が混雑した際、幕府の役人や大名も脇本陣に休憩・宿泊しました。保土ヶ谷には、藤屋、水屋、大金子屋の3軒の脇本陣がありました。そのほかに、茶屋本陣が1軒ありました。
保土ヶ谷の一里塚
松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里毎に築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を持って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つように榎や松などの木々が植えられました。
保土ヶ谷宿の一里塚は、日本橋から8番目に位置しましたが南側の一騎の存在しか伝わっていません。
この一里塚も明治時代の初め、宿場制度の廃止に伴って失いました。
この度の区制80周年記念の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような大きな塚は出来ませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せ宿場時代の再現に努めました。
東海道保土ヶ谷宿の松並木
我が国における街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模で取り組まれるようになったのは江戸時代になってからです。慶長9年(1604)幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来。夏は木陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、旅人の休憩所となることから、官民挙げて大切に保護されました。
上方見附跡
見附は本来、城の一番外側にあった番人のいる城門または警備、見張りの意味がありましたが、後に形式的になり、単なる宿場の入り口、玄関と云う意味で使われるようになりました。
旧東海道の各宿では、江戸側の出入り口にあるものを「江戸方見附」京(上方)側にあるものを「上方見附」と呼んでいました。
外川神社
明治2年保土ヶ谷宿の湯殿山講中先達がこの地に羽黒山麓の「外川仙人大権現」の分霊を祀ったのが初まりです。
境内にある道祖神は、虫封じ、航海安全にご利益があるとされてきました。
昭和10年頃は、保土ヶ谷駅を降りると、外川神社の線香の香りがしたと云われるくらい虫封じ祈願に訪れる人々で溢れかえっていたと云われています。
大仙寺
創建は平安中期(970頃)と伝えます。
本陣を勤めた軽部家の菩提寺で、保土ヶ谷区内で最も古い寺の一つです。東海道を行き交う旅人の信仰も厚く、道中安全の祈願で賑わったと云われています。
東海道線の踏切を渡り、国道一号(旧東海道)まで参道が続いていました。
本堂裏手の墓地に米俵の形をした墓石があります。新玉屋と云う米屋の保土ヶ谷宿一番の力持ちで、働き者と評判の「おでん」と云う女中の墓です。米俵3俵を軽々と持ち上げ、大の男を驚かせたと云われています。
遍照寺
創建は伝・貞観18年(876)
本尊薬師陀如来坐像は、京都仁和寺喜多院の本尊と同木、同作の尊像と伝えられており、仏向村にあったと云われる、浅間宝寺の本尊でした。永録・天正年間(1558~92)の兵乱の折、寺が焼打ちにあった際、本尊を帷子川に流しました。
それを老僧が拾い上げ、寺の本尊としたと伝えられています。なお、この寺には、岡野新田の開発に尽力した岡野家の墓があります。
大蓮寺
創建は寛永2年(1625)
日蓮上人が21歳の時、遊学の途中、帷子の里の一民家に泊り、子供たちの玩具の中に壊れた釈迦牟尼像を発見し、過ちを諭しました。家主は早速自宅に法華堂を改修し、その仏像を安置し、朝夕勤行に勤めました。その法華堂が寺の始まりです。
山門の下に「日蓮大聖人帷子の里御霊跡」の記念碑が建てられています。
また、本堂前には家康の側室「おまんの方」お手植えと云われるザクロの木(2代目)があります。
なお、山門脇の小道は、桜ヶ丘を通って元町橋へ抜ける「古東海道」とも云われています。