散策コース
二俣川駅(スタート)三佛寺→今川公園→清来寺→長屋門→今宿神明社→本立寺→弥勒塔→薬王寺→鶴ヶ峰駅(ゴール)
[二俣川駅]
大正15年(1926)5月12日、神中(じんちゅう)
鉄道が厚木~二俣川の間で開通し二俣川駅として開業した。当時は1日7回厚木行が在った。
その後、横浜に向かって順次延長し、横浜駅まで延伸したのは昭和8年(1933)でした。当時の駅は西谷、二俣川、三ツ境の3駅でした。
二俣下川駅→昭和8年~昭和18年まで営業。
希望ヶ丘駅→昭和23年開業
現在の1日の乗降客は約8万人で、相鉄線の中では横浜駅以外で大和・海老名に次いで多い。
①三佛寺
鶴峯山即相院三佛寺、浄土宗
旧小机領(港北・神奈川・保土ヶ谷・都筑・旭・青葉・緑区)三十三か所観世音菩薩霊場の28番目札所。旭区では他に1カ所=27番札所が長源寺(上川井)。 共に子年に御開帳する。
元和元年(1615)、地頭・宅間治部少輔規富(のりとみ)が三堂(阿弥陀堂+薬師・観音堂+地蔵堂)を合併して開基。 宅間家の菩提寺とした。
イチョウは古木名木指定。春にはソメイヨシノと枝垂れ桜が美しい。
本堂屋根の両端の紋=「絵すずめ」は宅間家の紋(上杉家・伊達家)、真ん中は浄土宗の紋。
②今川公園
市営の公園で平成4年6月開設 面積8.3ha トイレ3ヶ所。
グラウンド、テニスコート、多目的広場、日本庭園、遊具、
芝生と、ひととおりの施設が整っています。
遊具の種類が豊富で、斜面を利用したローラー滑り台やコンビネーション遊具など、子供連れの家族が1日中楽しめる公園です。
また、駐車場は旭区の公園では数少ない24時間営業になっています。
下部の谷間は自然公園でビオトーブ(生物群集が生存できるように整備された生息空間)がある。旭区の中央部にあり高台で眺めがよく、旭区の臍と云われる場所です。
旭区内にある身近な公園は旭土木事務所が管理しています。それ以外の大規模な公園(今川公園、こども自然公園、動物の森公園)は北部公園事務所で管理しています。
③ 鶴遊山清来寺(かくゆうざんせいらいじ)
本尊は阿弥陀如来像(作者不明)2尺2寸5分(77cm)
山門は矢喰門(薬医門)で、公家や武家の正門として造られ、その後患者が何時でも出入りできるように扉を無くした医者の門として使われた。
寺宝として次の4点が保存されている。
1、徳川歴代将軍朱印状
2、重忠公の武勇を伝える巻物「夏野の露」
3、駕籠2点 権門駕籠(けんもんかご)、張輿駕籠(はりこしかご)
4、親鸞・聖徳太子等の7高僧の画像
[朱印状]
古くは、鶴遊山万亀院と号し厚木にあった天台宗の寺院です。
安貞(あんてい)元年(1227)、宗祖親鸞が巡教の折り、住職清運が帰依して浄土真宗に宗旨替えした。口伝では寛永年間の(1624~43)にこの地に移されたと云う。
慶安2年(1649)、3代将軍家光から10余石の朱印地を下府され、今宿村にて庶民の管理を行っていました。
[朱印地と石数]
幕府・大名から神社・寺院の領地として安堵(所有権の承認・確認)された土地で、免税であった。
1石=10斗=100升=1000合=成人が1日に食べる米の量3合×365日
[夏野の露]
江戸時代末期に重忠公の武勇を讃えるため編纂された「夏野の露」と云う絵巻が伝えられています。
この絵巻は、嘉永5年(1852)19代住職曽我宥欽が智仁勇を兼ね備えた重忠公の遺徳を長く後世に残すために、吾妻鏡、武蔵風土記や重忠公の遺跡や昔からの言い伝えなどを基にして作ったものです。
「夏野の露」と云う題名は、重忠公が北条時政の謀略によってこの地で露路と消えたのが、元久2年6月22日の夏季であったことに由来しています。
④長屋門(平成27年3月 横浜市歴史的建物に指定)
長屋門は門構えの両側に長屋を付加した民族建築物の一つで、江戸時代の大名や武家屋敷によくみられる。
長屋部分には下級武士や使用人が住んでいました。納屋、家畜小屋、隠居所等にも使われていたようです。 横浜では名主に限り建てることを許されたと云う。
今宿西町で代々名主を務めた鈴木家の長屋門。鈴木家は、先祖代々、名主や年寄りをしており、屋号は「世古丁(よこちょう)と云った。
建てられたのは江戸の末期の安政2年(1855)で、ペリーが2度目に浦賀を訪れるなど幕末の騒然としていた頃。
建築された当時、外壁は全て板張り、茅葺屋根の3階建てで、農作業小屋や養蚕、茶の保管等に使用していた。
鈴木家の庭に、珍しい男女一対の立像(約60cm)が祀られている。「田のかんさぁ」と呼ばれる田の神様、稲作の豊穣をもたらす神様。
桟俵(さんだわら→米俵の両端にあてる、円い藁製のふた)の帽子を被り、右手にシャモジ、左手に御椀を持って、笑みを浮かべたユーモラスな姿をしている。秋の収穫祭にはベンガラ色(インドのベンガルに産した顔料)の顔料をぬって御化粧をする。もともとは薩 摩独特の風習のようです。
⑤今宿神明社
寛政8年(1796)創建と伝えられている。
祭神は、天照大御神、宇加之御魂命 、猿田彦命、第六天。
現在、三社と呼ばれているのは、明治初期に第六天社と稲荷社を合祀したため。しかしながら、大正2年に、日影稲荷社と鶴ヶ峰神社を合祀して五社となったが、昭和39年に鶴ヶ峰神社が返還されたため四社と呼ぶのが正しい。
・横浜市指定の名木 イチョウ、ケヤキ、アラカシ
(横浜市指定の名木は、旭区は97本で、市内で多い方から2番目。1番は港北区の117本。)
毎年1月中旬、隣の公園で「どんと焼き」が行われる。もともとは道祖神の火祭りとされる。
1000人もの人々が正月のお飾りやお札等を持ち寄って、木や竹で組んで3つ櫓(やぐら)を積上げて炊上げる。配られた団子を竹に刺して火で炙って食べると、その年は健康で過ごせると云う。
どんどん焼
左義長(さぎちょう)のことで、どんと焼き、賽灯焼き等、地域によって呼び方は異なるが、1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅(三色団子も)を食べる、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくと、その年の病を除くと云われている。
また、書き初めを焼いた時に、炎が高く上がると、字が上達すると云われている。
道祖神の祭りとされる地域が多い。
今宿神明社の「どんと焼き」には1000人もの人が集まり、小高神明宮では斉灯焼(さいと やき)と云われている。
⑥本立寺(ほんりゅうじ)
享保3年(1718)に日蓮宗池上本門寺の末寺として建立された。
江戸中期の大奥で起きた「絵島・生島事件」が、この寺と関わっていたことをご存じでしょうか?
「絵島・生島事件」とは、正徳4年(1714)、江戸城大奥年寄の絵島(32歳)が将軍生母月光院の名代として、芝増上寺に前将軍家宣の墓参に行った帰り、木挽町で歌舞伎芝居見物をしたため江戸城の門限に遅刻したのが発覚したことをキッカケに、絵島が役者の生島新五郎(40歳)とただならぬ仲となったとして、大奥の綱紀粛正のため1500人が処罰された事件。
(大奥における前将軍の正室と側室との対立、更に側用人と譜代門閥衆との権力闘争が背景となったと思われる)
絵島は信州高遠藩に流刑、相手の生島は三宅島に遠島。絵島の義理の兄(血の繋がりは無い。絵島の母が後妻に入った白井家の2代目当主)で、この地域一帯の地頭であった旗本の白井平右衛門勝昌は、絵島の宿下がりの仮親元としての監督責任を果たしてないという罪を問われ、前に犯した罪(大阪勤務時代に町人を傷つけた)が加重されて、所領没収のうえ、斬首された。
白井勝昌は日蓮宗の熱心な信者で、寺を建立するのが悲願であったと云う。白井勝昌の遺言を受けて、この地の名主であった「鈴木武左衛門」(長屋門の本家の先祖)が、享保3年(1718)、荏原郡峰村にあった池上本門寺の末寺を自分の土地であるこの地に移し、勝昌の菩提を祀ったのが始まりと伝える。
また明治6年(1873)から今宿学舎として使われた。明治5年(1872)の学制発布により、現在の旭区には5つの学舎ができた。宮沢学舎、三仏寺の二俣川学舎、市野澤学舎、福泉寺の川井学舎、この今宿学舎の5つ。
[天邪鬼 あまのじゃく]
もとは日本の妖怪の一種で、悪鬼神または小鬼。
仏教では人間の煩悩を表す象徴として、四天王などに踏みつけられる悪鬼であったが、日本古来の天邪鬼と習合されて、足下の鬼類を指すものになった。 日本の民話においては、人の心を察して口真似などで人をからかう妖怪。
現在では、ひねくれ者を指す。
⑦弥勒塔
この五又路(ごさろ)は、明治15年にできた日本初の地形図にもこのまま載った。
武州今宿村の刻銘があり、 村の入り口の「道しるべ」であったと思われる。
釈迦入滅後56億7千万年後に悟りを得て、世の人々を救うようにとお釈迦様から云われた弥勒菩薩像が田中家敷地の一角にある。天明8年(1788)建立、石塔の上側に長さ15cmの像が彫ってある。
田中家では、亡くなったお婆さんの遺言「仏さんとイチョウの木をしっかりお守りせよ」を守って、大切にお祀りしている。ヨダレカケは、裏表を使用して、年末には必ず新しいものと交換する。3月24日(地蔵の日)には、幟を立ててお祀りする。(旧暦7月24日=新暦8月24日は「地蔵盆」という子供たちのお祭りの日)
田中さんによると、弥勒菩薩という意識は無く、「道しるべ」のお地蔵さんと考えているようだ。
日本における山岳信仰の歴史は古いが、山の頂上を弥勒浄土とみなす弥勒信仰が盛んになったのは平安時代からで、修験道の霊地として尊崇された富士山も、その頃から弥勒の浄土とみられた。
従って富士山のことを今でも霊峰富士と呼ばれるようになった。
⑨薬王寺
曹洞宗の寺で本尊は薬師瑠璃光如来。東隆山薬王寺と畠山重忠霊堂と六つ塚があります。
旧薬王寺は禅宗の曹洞宗派で東光山と号し、川井の福泉寺の末寺でした。
開山は江戸中期の北譚(ほくたん)大和尚と言われ今宿南町にありましたが、明治39年焼失しました。
六つ塚
境内には、北条時政・牧の方の陰謀にはまり42才の生涯をこの地で閉じた重忠公のほか一族郎党134騎が葬られている「六つ塚」があります。
(1)畠山霊堂創建記念碑→昭和39年建立(右側の塚の奥)
昭和の初めここに重忠公の霊廟を建てようと云う運動が起こります。
これは地元の発声ではなく、「武蔵戦記」などを書いた人で、重忠公を武士道の神として崇敬し、知・仁・勇に惚れ込んだという陸軍大佐栗原勇(佐賀県出身)の発声でした。
地元の篤志家達に発願し、仏教徒の協力を得て重忠公の霊堂を建て読経供養や参禅などの道場にしたいというもので、十方各位の協力を得たと碑文に有りす。
栗原氏は準備を進め、昭和2年2月15日には一村挙げて、重忠公の墓前に集い追悼会が厳粛に執り行われた。
翌3年、保存会を発足させ、霊堂を作る計画を立てたが許可にならず。
今宿南町にあり、明治39年に焼失後廃寺になっていた薬王寺を移設する条件で昭和3年に再建され、昭和5年霊堂が別棟で完成した。
この霊堂は戦後間もなく無くなり、薬王寺の建て替えで合体され、昭和39年に現在のような建物になりました。
毎年命日の6月22日には各地の関係者(埼玉県川本町、岩手県田野畑村)が参加して盛大に慰霊祭が行われています。
(2)畠山重忠公戦没の地→昭和10年建立.
昭和10年、横浜貿易新報(明治23年(1890)創刊は横浜商人達の手によって創刊された神奈川新聞の前身)が創立45周年に因み募集した「県下名勝史跡45選」で畠山重忠公戦没の地が31位で入選記念碑が建てられた。
(1位⇒石小屋(愛甲郡半原) 2位⇒妙香寺(北方町) 3位⇒峰の灸(円海山)
これも一重に名勝保存会の活動もあったが、この宣伝により、その後の「鶴ヶ峰に重忠公の遺跡あり」が継承されてきたことに繋がる。大変意義のある石碑である。
こうしてみてくると、重忠公は昭和に入ってからの、武士道の復興や富国強兵思想の啓蒙にも、一役買ってきたと云えます。
重忠公のお墓は何処に?この六つ塚は正式な墓ではありません。重忠公の墓は、生誕地の川本町の重忠公史跡公園内にある五輪塔様式の墓があります。菩提寺として埼玉に萬福寺があり、寺内には位牌が安置されている。
鎌倉釜利谷の東光禅寺には墓ではないが、五輪塔があり、薬王寺には重忠公の位牌と菊の前の位牌が有ります。
当地に民話「六つ塚の祟り」と峰宇稲荷の民話が伝えられています。
⑩駕籠塚
元久2年6月22日 快晴の昼頃、 重忠の内室「菊の前」は合戦の知らせを受け、駆けつけました。
しかし、鎌倉で重保が、この地で重忠公が戦死したことを聞き、乗っていた駕籠の中で自害し、夫の後を追ったと伝えられています。
遺体は駕籠ごと埋葬されたため「駕籠塚」と呼ばれるようになりました。
以前は浄水場の中にあり、回りを竹で囲まれた大きな塚であったと伝えます。
昭和30年に場外に移され、昭和49年に現在の場所に整備されました。
碑文には「重忠は岳父、北条時政の策謀により、免罪を被る」とあり、「菊の前」は時政の娘ですから、義時の妹にあたります。
その当時は、一人の権力争いのために親子、兄弟が骨肉の争いに巻き込まれる世の中であった事がわかります。
しかし、吾妻鏡・年表などによると、承元(じょうげん)4年(1210)重忠の所領は正室「菊の前」に安堵とあり、当地の口伝と異なる。 内室「菊の前」だと言われているが、重忠公の正室は北条時政の娘、北条義時と政子の妹で、その後、本領安堵され、足利一族の者と再婚し、畠山の名跡を継いだとの記録が残されている。(畠山の血は、平氏から源氏に変わった)
室町時代になって、子孫の畠山国清が関東管領になった。
[鶴ヶ峰駅] 昭和5年開業
昭和37年相鉄初の橋上駅舎化し5両編成運転に備えホームを110mに伸ばすなど相鉄の近代化は鶴ヶ峰駅から始まったと云われています。