横浜水道の歴史
旭区を縦断している水道管は横浜市民の生命線
~横浜水道(水道道)は旭区の文化遺産~
旭区の地図を見ると八王子街道と帷子川に沿いつ離れつして水道道が
ほぼ一直線に縦断している。
明治20年(1887)以来ずっと横浜の中心部(関内地区)に水を送り続けて、横浜市域の拡張と共に給水範囲を広げてきた。この横浜水道は横浜市民の生命線である。
開港後の横浜は、埋立地が多く良質の水が得られず、外国人居留地からも水確保に強い要望があり、更に明治15年(1882)、伝染病コレラの流行もあり、上水道の導入には長い間悩まされていたが、従来の木樋水道を廃止し、横浜が日本最初の「近代水道」(水源からの水圧を加え送水するので導水管は鋳鉄管を使用する方式)を採用したことは画期的なことであった。
旭ガイドボランティアの会 村田啓輔
日本初の近代水道は 横浜で明治20年開設
神奈川県は明治16年(1883)、香港政庁の英陸軍工兵少佐、H.S.パーマーが来日した際、彼と3か月の契約を結び、水道施設に関する調査、設計を依頼した。
その報告書に基ずき同18年工事が着工され、津久井郡三井村の道志川が相模川に合流する地点(海抜100m)に取水口を求め、そこから野毛山浄水場(海抜50m)にいたる43km余りの導水線路を2年間かけ、同20年9月に開通させた。
相模川が狭い山間を流れる上流部と川井接合井から野毛山に至る丘陵は起伏が多く、帷子川が曲がりくねり、地盤も悪く工事は難航した。英グラスゴーから輸入した鋳鉄管は船で相模川から上流に運び上げるか、水道管を埋設する道路敷にトロッコを埋設して運搬されており、今でも随所にトロッコ跡が見られる(福泉寺入口付近、川井本町バス停付近、西川島公園など)。給水開始の日には関内の吉田橋のほとりで、消火栓を使った放水試験がおこなわれ、筒先から勢いよく吹き上げる水に人々は驚嘆したものだ。
給水人口増に対応して施設の拡充進む
明治20年(1887)当時の計画給水人口は7万人であり、その後の都市基盤の拡充と人口増に対応するべく、浄水場の新設、拡充がつずく。
明治34年 川井浄水場完成(給水人口30万人)
大正4年 西谷浄水場完成( 同 80万人)
昭和16年 西谷浄水場拡張
本管の拡張を開渠方式で補う
さらに戦後になって、川井浄水場から西谷浄水場までの本管の導水を増やす必要に迫られ、口径の大きい(1350mm)管の敷設を計画したが、鉄管のコスト高には当時の経済事情が許さず、止むをえず従来の水圧をかけた鉄管による導水とは異なった「開渠方式」(U字溝で傾斜を利用して導水する)により鶴ヶ峰ルートを別途に開通させた。(昭和27年)
この区間は「大貫谷戸」「梅田谷戸」「鶴ヶ峰」の3か所の谷戸に「水路橋をかけ、現在の「ふるさと尾根道緑道」の稜線の傾斜を利用しての約7kmで、現在は暗渠やトンネルで流水は見られない。後に、工業用水のためにも、浄水場を鶴ヶ峰の丘の上に完成させた。(昭和36年、給水人口120万人)
水道道と区民の生活
大正から昭和の戦前にかけて、都岡村をはじめ水道道の沿道の農家は横浜市内に向けて牛車を連ねて、往きは野菜、帰りは肥料にする糞尿を載せて水道道を通っていたという。その横浜市内に向かう途中の保土ヶ谷町では、水道開通から34年後、大正10年(1921)から近代水道により給水が開始されたという記録がある。川井浄水場開設から20年後、西谷浄水場開設から6年後であった。
それから約90年が経過した現在、水道はさらに発展を続けた。給水範囲は市内を網目状に広がっていき、今や横浜市民の重要なライフラインの一つである。給水人口の増加は、前述の浄水場の新設のみならず、その源となる水源の拡充を必要とした。横浜市の水源は次の5か所となっている。
①道志川系統(一番古くからある道志川の水)172.800㎥
②相模湖系統(相模湖で貯めた水)394.000㎥
③馬入川系統(主に津久井湖で貯めた水)284.700㎥
④企業団酒匂川系統(主に丹沢湖で貯めた水)605.200㎥
⑤企業団 相模川系統(主に宮ヶ瀬湖 〃)499.000㎥
(数字は一日に取ることができる水の量)
※横浜スタジアム一杯に水を貯めると約310.000㎥
これら水源の水は、県内8浄水場を通って、市内23か所の配水池から各戸に送水される。そのルートは緊急対応も考慮されて、網の目のように張り巡らされており、万が一、水道網の一部に支障が生じた場合でも、他の水源を利用するなどして相互に補完しあえる仕組みとなっている。その中で旭区区域の水源を絞り込むと、次の図のとおりである。