旭区の寺社  

区内には、現在「神奈川県宗教法人名簿」によると、寺院が14寺、神社が16社あります。

 また、明治初年の神仏分離により、廃寺、合寺となった寺が五寺(円法寺、吉祥寺、成願寺、西岸寺、禅道庵)あります。

旭区の14寺

名称 宗派 所在地
長源寺 高野山真言宗 上川井町214
長見寺 市沢町871
上川井 長源寺
上川井 長源寺

高野山真言宗 長源寺

住所 旭区上川井町214

本尊 大日如来坐像 1513に造立。横浜市指定文化財。

 天平11年(739)行基によって開山された寺で、川井山観音院と号していました。

その後、永長年中(1096)に、八幡太郎義家が修理を加えたが、永正年中(1504~1520)密教門の棟梁印融が中興開山し、金剛密教の道場となりました。

 又、観音堂に祀られている本尊十一面観音は行基の作と云われる木の立像で、高さ二尺八寸(1.15m)あり、旧小机領三十三観音霊場第27番札所として信仰を集めています

 

 


長見寺
長見寺

一澤山 知恵門院 長見寺

住所 旭区市沢町878

本尊 不動明王立像

開創は鎌倉時代後期と伝えられていますが委細不詳です。

墓地には、江戸中期以降の石碑がたくさん残っているのでその頃の開山と思われます。

境内には、災難除地蔵、六地蔵、疫病除地蔵、交通安全馬頭観音、伏見稲荷社、寺子屋時代の天満宮筆塚などが残っています。


三佛寺 浄土宗 本村町76
浄性院 本宿町95
長楽寺 東希望が丘141
清来寺 浄土真宗本願寺派 今宿南町1895
本村町 三佛寺
本村町 三佛寺

鶴峰山 即相院 三佛寺

住所 旭区本村町76

本尊 阿弥陀如来

開基 宅間規富 元和元年(1619)

 初めは、観音寺と称して真言宗でしたが、慶長8年(1603)浄土宗に改めました。

院号は宅間規富の法名より採り、寺号は創建当初当地にあったと云われる阿弥陀・薬師(観音)地蔵の三堂を合祀したところから三佛寺と命名されました。

 観音堂に祀られる、聖観世音像は藤原時代の物と云われ、旧小机領三十三観音霊場28番札所として、12年ごとの子年に開帳されています。

 宅間家の墓が、開基規富以下宅間家代々の墓18基が建つ宅間家の菩提寺です。この宅間家は区内にある五寺社に関わり、大変大きな功績を残した人です。その五社とは

①三佛寺 ②長楽寺 ③妙蓮寺 ④善部神明社 ⑤本村神明社です。

 又、当寺の寺子屋教育は天明(1781~1788)まで遡り、幕末から明治まで約100年間実施されていたと云われ、当時の寺子屋時代の机が今でも残されています。


本宿町 浄性院
本宿町 浄性院

源円山 浄性院

住所 旭区本宿町95

本尊 阿弥陀如来坐像

浄性院の起こりは、昔この地に源円山浄性院長安寺と云う廃寺があったのを、天正19年(1591)地頭の渡辺孫三郎が再興して浄土宗としたのが起こりです。

渡辺氏は桓武天皇の流れをくみ畠山氏とは同族です。

さらに、源頼光四天王で、鬼の手を切り落とした話で有名な「渡辺の綱」も先祖の一人です。

 なお、浄性院の梵鐘は区内で最も古い梵鐘です。

天明8年(1788)物部氏の作と云われています。

 

 


東希望ヶ丘 長楽寺
東希望ヶ丘 長楽寺

三経山 浄業院 長楽寺

住所 旭区東希望が丘141

本尊 阿弥陀如来(1549)

三経山は現在の三ツ境の地名からきているとか、密教からとか、浄土三部経の三経であるとも云われています。

善部谷の宅間次郎規次氏の寄進を受け寛永2年(1625)に建立。別名しゃもじ寺とも云われ、久しくお清めした、おしゃもじを檀信徒に配り、古くなったおしゃもじに感謝し、1月15日にお焚き上げするしゃもじ供養を行っているところから「しゃもじ寺ています。

 

 

 


今宿南町 清来寺
今宿南町 清来寺

鶴遊山 万亀院 清来寺

住所 旭区今宿南町1895

本尊 阿弥陀如来坐像

古くは天台宗で厚木にありました。

寛永年間(1624~1643)にこの地に移され安貞元年(1227)宗祖親鸞の関東巡教の折浄土真宗となりました。

慶安2年(1649)三代将軍家光の時十余石の朱印地となった。

 この寺は、都筑が丘、都筑が原と呼ばれた由緒の深い地域の一部にあり、昔は鶴が群れ遊んでいた寺であったと伝えています。

また清来寺には「夏野の露」と云う巻物が伝えられている。この巻物は、十九代住職が、畠山重忠の武勇を讃えるため、近在の人々に呼び掛け歌の形にして集め編集したものです。

 五千坪の境内には、ケヤキ、白モクレン、朴、茅、コウヤマキ、などが茂り、特に本堂の裏山の椎の大樹は開山の頃からの物で根元からは浄い水が湧き出て「椎の水」と云われかつては生活水に使われていました。

 

 


長昌寺 曹洞宗 さちが丘59
福泉寺 川井本町86
薬王寺 鶴ヶ峰本町2-14-1
さちが丘 長昌寺
さちが丘 長昌寺

永谷山 長昌寺

住所 旭区さちが丘59

本尊 釈迦如来坐像

天正7年(1579)厚木市飯山の「金剛寺」から分院し建立されました。

慶長5年(1600)現在のさちが丘第三公園辺りにあった寺を現在の地に移しました。

境内にはイボトリ地蔵、七地蔵が鎮座しています。

 

 

 

 

 


川井本町 福泉寺山門
川井本町 福泉寺山門

福泉寺

住所 旭区川井本町86

本尊 釈迦牟尼仏

永禄元年(1558)僧脱山宗随により開創。

伝的和尚が開基となり、長津田町大林寺三世顕堂長察大和尚を開山とした伝統ある寺であったが明治24年5月15日全宇を焼失、残ったのは元禄14年(1701)鋳造した梵鐘だけだった。それも先の大戦に供出し残されたものは皆無となった。以後懸命な努力の末、大正8年客殿、昭和24年庫裡、昭和31年梵鐘、昭和44年本堂が完成し、完備された今日の境内には、六地蔵、立像の立派なお地蔵様、そして、名木古木の宝庫となっている。特にイチョウの木は乳だし銀杏伝説を伝える見事な名木です。

 江戸時代には徳川家より朱印地10石の朱印状が授けられ、明治5年には境内に川井学舎が開設されました。

 


鶴ヶ峰本町 薬王寺
鶴ヶ峰本町 薬王寺

東隆山 薬王寺

住所 旭区鶴ヶ峰本町1071

本尊 薬師瑠璃光如来

 以前は、今宿南町にあり福泉寺の末寺であったが明治39年の火災によりすべてを焼失しました。

 昭和2年当地で畠山重忠の慰霊祭が行われたのを契機に昭和5年薬王寺を移設するということで霊堂が完成し重忠公の金箔の霊位が祀られています。

 また、鎌倉北条の陰謀によってここ鶴ヶ峰で戦死した重忠公以下一族郎党134騎が祀られている六つ塚があることで有名です。

命日の6月22日には全国各地から縁のある人々が式典に参列し500人からの賑わいとなります。


妙蓮寺 日蓮宗 善部町66
本立寺 今宿西町574
大歓寺 日蓮正宗 万騎が原84

 

善部町 妙蓮寺
善部町 妙蓮寺

松久山 妙蓮寺

住所 旭区善部町66

本尊 大曼荼羅

地頭宅間伊織が寛永5年(1628)名主和田四郎左衛門に命じて建立。

開山は、本山・法明寺(鬼子母神で有名)16世日證上人で、上人は妙蓮寺を隠居で寺とした旨の棟札があります。

 江戸時代後期に伝えられたという「曲題目」は県の無形文化財に指定されています。また境内には和田義盛公の公碑があります。

 

 

 

 


本立寺
本立寺

感応山 本立寺

住所 旭区今宿西町574  

本尊 大曼荼羅     

この寺は、池上本門寺の末寺で当初は荏原郡峰村(現在の東京都大田区)にありました。正徳4年(1714)今宿の地頭白井平右衛門が家禄を没収されたとき、里正武左衛門がその管理を委嘱されました。武左衛門は享保3年(1718)峰村から現在の地に寺を移して先祖の菩提を弔いました。

境内には、開基の鈴木武左衛門の碑があります。

 また、明治5年学制が施行された折には、翌年本立寺が学舎になり学校の第一歩となりました。

 この頃の今宿村は57戸程で農閑期には養蚕が盛んだったようです。

 この本立寺には、かの有名な江戸城大奥で起きた「絵島・生島事件」に大きく関わってきます。この地で地頭になった白井平右衛門の妹が絵島なのです。

この物語の内容は、「歴史の古道・八王子往還を歩く」でご覧になれます。


正圓寺 真宗佛光寺派 中白根1-1-11
浄願寺 仏教系単位 下川井町2073-1
白根町 正圓寺
白根町 正圓寺

白根山 正圓寺

住所 旭区白根町1378

本尊 阿弥陀如来

開山は慶長元年(1596)

真宗(浄土真宗)仏光寺派(京都下京区)の末寺ですが、古くは真言宗であったと伝えます。以後江戸時代は白根地頭の菩提所として守られてきたが、文久2年(1862)15世住職没後は荒廃し、明治20年頃には火災で一切を焼失、以後50年間放置されたが昭和9年仮の本堂、庫裡が造られ、昭和55年に新本堂が完成しました。

 境内には、この辺り一帯を知行していた藤川十衛門重安

があります。重安は天正12年(1590)地頭となり上・下白根村の他に久良岐郡岡村(現在の磯子区岡村)も納めていましたが江戸詰めであったため、土地の管理は斉藤代官が地方の行政・司法権を一手に引き受け絶大な権力を握っていたようです。今でも、白根街道には代官前(バス停)や代官橋が残っています。

 



 

神社 旭区17社

社 名 祭 神 所在地
本村神明社

伊邪那岐尊

伊邪那美尊

天照大神

本村町39
善部神明社 天照大神 善部町67
春の木神明社

伊邪那岐尊

伊邪那美尊

天照大神

東希望が丘169
神奈川坂神明社

伊邪那岐尊

伊邪那美尊

本宿町14
切割神明社

伊邪那岐尊

伊邪那美尊

南本宿町51

上田神明社

伊邪那岐尊

伊邪那美尊 

南本宿町160 

今宿神明社

天照大神

宇加之御魂命

猿田彦命

第六天 

 今宿西町576

上川井神明社

国常立尊 

上川井町112 

小高神明宮

大日留女尊 

 小高町93


大祓の本村神明社
大祓の本村神明社

本村神明社

住所 旭区本村町39

由緒沿革→寛永8年(1631)宅間伊織創建。

本村神明社の創始は古く武蔵風土記(神戸神明社の縁起)によれば、平安中期天禄元年(970)に伊勢神宮の神霊が半が谷の峰に影向があったと記されています。

その後、川井に移り、更に二俣川に鎮座し、また保土ヶ谷の神戸町に移ったので、二俣川の宮を仮の宿としたと記されています。その後、神託(神のお告げ)があり神戸町(神戸町神明社)に鎮座したとある。

この神霊に対する信仰を持続して今日に至っています。

 


東希望ヶ丘 春の木神明社
東希望ヶ丘 春の木神明社

春の木神明社

住所 旭区東希望が丘169

由緒は不明ですが口伝によると、伊勢講の人々が伊勢神宮より持ち帰った神符を納め祀ったのが始まりで、元亀元年(1570)に社殿が建立され、昭和23年に三ツ境神社を合祀しました。

 現在では横浜市内で最も高い地(標高92m)に立地することから横浜FCが必勝祈願に毎年参拝しています。

 


神奈川坂神明社

本宿町14番地

 

旧本宿村三神社のうちの一つです。

古くは下川神社と呼ばれていましたが、神奈川坂に在るところから神奈川坂神社となりました。


切割神明社 南本宿町51

イザナギの命・イザナミの命 祭礼 9月13日

旧本宿の三神社の一

 市の名木指定 銀杏

銀杏は地球に恐竜が棲息していた頃には生息していた。

日本には仏教の伝来と共に渡来し、寺院や神社などに多く植えられました。 

  地権者14名、相続者59名の神社の敷地を昭和61年社地に登記変更その記念に灯篭、社号標を建てる。



上田神明社

南本宿町160

旧本宿村三神社の一つ

市の名木古木→ヤブツバキ

神社内の石仏

①青面金剛庚申塔

 宝永5年(1708)

②地神塔

 天保6年(1835)

③不動明王

 万延元年(1860)

④道祖神

 文化14年(1817)


上川井神明社

上川井町112

上川井神明社祭神は国常立命(国土形成の根源神・日本書紀では一番初め神)

 

ここは、旧八王子街道に面した所で入口の階段には、松、欅、椿などが繁茂しています。

 

創建の年代ははっきりしませんが、境内の石仏の台座に河井村と記されています。河井村は元禄年間(1688~1704)になってから三村に分かれているので、この社は、遅くとも江戸時代中期以前には創建されていたと思われます。

 


小高町 小高神明社
小高町 小高神明社

小高神明宮

住所 旭区小高町93

祭神、大日留女尊は天照大神の別名。

由緒→小高町は、貞享4年(1687)小高市右衛門の開拓したところで、当社は村の鎮守として、元は名主・小高家の屋敷内に祀られていました。

 市右衛門は小高新田の開祖で、貞享4年(1688)徳川幕府の旗本勘定役を辞任し、保土ヶ谷宿在に帰農したと云われています。以後市右衛門は現在の旭区内の各地に点在する山林や、荒れ地を開拓して、その地に自分の苗字を付けて小高新田と名付けました。そして、小高新田の総鎮守として元禄年間(1688頃)に社殿を創建し、ご祭神を勧請したと伝えます。


 

[今宿神明社]  

 

寛政8年(1796)創建と伝えられている。

 

祭神は、天照大御神、宇加之御魂命 、猿田彦命、第六天。

 

現在、三社と呼ばれているのは、明治初期に第六天社と稲荷社を合祀したため。しかしながら、大正2年に日影稲荷社と鶴ヶ峰稲荷社を合祀して五社となったが、昭和39年に鶴ヶ峰稲荷社が返還されたため現在は四社と呼ぶのが正しい。

 

横浜市指定の名木  イチョウ、ケヤキ、アラカシ

 

(横浜市指定の名木は、旭区は97本で、市内で多い方から2番目。1番は港北区の117本。)

 

毎年1月中旬、隣の公園で、もともとは道祖神の火祭りとされる「どんと焼き」が行われる。1000人もの人々が正月のお飾りやお札等を持寄って、木や竹で組んで3つ櫓を積上げて炊上げる。配られた団子を竹に刺して火で炙って食べると、一年間健康でいられると云う。

 


三反田稲荷神社 鸕鷀霊尊 三反田町228
上白根稲荷社

宇加之御魂尊

天照大神

皇産神大巳貴命

日吉大神

上白根町221

三反田稲荷社

三反田町228

 祭神 ウカノミタマノ尊

祭礼は9月12日

鳥居は明神系の両部鳥居・厳島神社と同型です。

 

石仏

1、道しるべ庚申塔 寛政8年

( 1796)(右)右 保土ヶ谷道  (左)左 神奈川道

2、地神塔(ちじんとう) 天保4年(1833)

 

三反田町はすこぶる奇妙な形をしていて、面積も小規模で0,162平方km。水田僅か三段歩だけであったので三反田となった。江戸初期の絵地図には確認できたので古くからあった村です。

 


上白根稲荷社

上白根町221

白根の歴史は、明治以前は、地図を見ると人家は上白根の方がはるかに多く、神社も多かったようです。

 

江戸後期には大池の灌漑水を谷戸田に引く実績もある。

 現在の社殿は昭和7年のものです。

 大正11年同所にあった4社

神明社(天照大御神) 

第六天社(タカムスビノカミ)、

杉山社(オオナムチノミコト)

山王社(ヒエオオカミ))を合祀して、創建されたので寄せ宮と云われた。

 

 内藤鳴雪の句碑

当地には白痴吟社と言う俳句の会を主宰していた高橋紅子(コウシ)(憲作)が句碑の建立を企画し、鳴雪に原稿を依頼したところ

「夫は夫たり婦は婦たりてぞ松涼し」と境内の夫婦松を詠みました。この夫婦松の切り株が祠の中に祀られています。

 


熊野神社

天照大神

伊邪那岐尊

市沢町807

八幡神社 応神天皇 川井宿町66-1
白根神社 大和武尊 白根3-540
三嶋神社 大山住命 下川井町334
日吉神社 大山貴命 さちが丘5

熊野神社

市沢町807

祭神:天照大神・イザナギの尊

由緒:不詳(「風土記稿」では、丘の上に鎮座、村の鎮守、弘法太子肉筆の六字名号(南無阿弥陀仏)を神体になぞらふとある。

 

右手、敷地外に正一位稲荷大明神が鎮座する。

 

社殿左に五基の庚申塔と地神塔がある。 

・前右)青面金剛庚申塔 元文元年(1736)

    六臂・邪鬼・日月・二鶏・三猿・頭部蛇

 

・前中)青面金剛庚申塔 延宝8年(1680)庚申の年

    六臂・日月・三猿・頭部蛇

 

・前左)青面金剛庚申塔 享保14年(1729)

    六臂・邪鬼・日月・二鶏・三猿・頭部蛇

 

・後右)青面金剛庚申塔 延宝8年(1680)

 

・後中)地神塔 天保4年(1833)

    上下講中・六臂・日月・三猿

 

 ・後左)阿弥陀坐像庚申塔 延宝8年(1680)

    定印・蓮華座・三猿

 


八幡神社

川井宿町66-1

 後三年の役(1083~1087) 八幡太郎義家は、朝廷の命を受け、陸奥の清原家衡を討伐するために奥州へ向かいました。

 そして、行軍の途中、ここ八幡社の境内に弓場を作り、弓矢の鍛練をすると共に、自分の守り本尊を、その場に祭って戦勝を祈願しました。

 ここの弓場から飛んだ矢が1,5km先に落ちた。そこが矢指となりました。

やがて勝って帰る途上、戦場のお礼にとこの地に八幡社を建立したと言われています。

 

 


  白根神社のライトアップ 2017-3-19       
白根神社のライトアップ 2017-3-19       

白根神社白根不動尊

住所 旭区白根町540

由緒沿革→創立年月は不詳ですが、源義家が厚く信仰し、天喜年間安倍貞任・宗任征伐(前九年の役)の時、白根神社の本尊(不動明王)をお守りとして兜の中に納め、勝利を得たのに報いるため、康平6年(1063)鎌倉権五郎景政に命じて社殿を造営し御神像を祀ったという。文治5年(1189)源頼朝奥州藤原氏討伐の途次 、義家の故事を想起し、境内の池で身を清め勝利の祈誓をした。その池は鬢手洗池跡として伝承されている。

社殿は大正8年に炎上後に造営したものです。

大正10年には村社になりました。

江戸時代には、白根のお不動さんとして世に知られていたが、明治の初めの神仏分離によって、この地にあった成願寺は廃寺となり、白根不動と白根神社に分けられたが人々は神であり仏であり信仰心は変わることなく不動尊と神社が一体となり共栄しています。

 


三嶌神社

下川井町334

大山阿夫利神社と同祭神

祭神大山祇神(おおやまづみのかみ(山と海の神)さかとけの神とも云われる。(酒の神)

 

由緒は不明ですが、川井村が上下に分かれていた寛永年間(1624~1643)には建てられていたと思われます。

 

三嶋神社の前身は瀬戸神社であると伝えます。大阪落城の折り、豊臣軍の一派の者がこの地に霊を祀ったのが瀬戸神社だと言われる。

なお、神社内に江戸後期に書家として活躍した新田道純(ドウジュン)筆(新田猫の絵で有名)の社名扁額が納められています。

 

 


さちが丘 日吉神社
さちが丘 日吉神社

日吉神社

住所 旭区さちが丘5

由緒沿革→創立年代は不詳ですが、この地はもと都筑郡幡屋郷に属し、古くは榛谷氏の御厨が置かれ、鎌倉時代の豪族榛谷氏の故地でありました。その鎮守であった当社が古社であることは当然のことです。天保14年(1843)滋賀県坂本にある神社(比叡山東麓にある山王信仰の神社)からご神体の幣束を拝受して奥殿に安置したとあります。