5B たちばなの丘公園と市沢の石仏・石塔を訪ねる 約6.3km

コース

鶴ヶ峰駅南口→馬頭観音→椚谷公園→聖徳太子像→三反田の地蔵尊→小高神明宮→神田公園→市沢地区センター→市沢の石塔群→一猿庚申塔→

熊野神社→長見寺→たちばなの丘公園→県公社住宅前バス停

 

 

 

 

 

主なポイントの写真紹介

 

馬頭観音
馬頭観音

馬頭観音
この馬頭観音の隣に住んでいた「サッチャン」婆さんに馬頭観音が乗り移り、サッチャンは易を診るようになったということです。それがまた、よく当たるので大変人気になり、遠方からも客が来て道を尋ねられ近所の家は迷惑したとか?


椚谷公園
椚谷公園

椚谷公園
昭和の中期までは公園一帯は田圃でした。

今では、トイレも整備され立派な公園となりウォーキング時には必ず休憩するところです。

 


聖徳太子像
聖徳太子像

聖徳太子像 文化5年(1808)建立

聖徳太子は、法隆寺、四天王寺、広隆寺等寺院建設史上大きな功績があったことから、ここ三反田でも大工職人らの間で太子講が組織され、毎年2月22日の聖徳太子の命日の講が開かれていた。

 

平成28年2月9日に聖徳太子像は三反田稲荷社に移転安置されています。

 


三反田の子育て地蔵尊
三反田の子育て地蔵尊

 

 

 

 

  三反田の子育て地蔵尊 (1764)

  所在地小高町114


小高神明宮
小高神明宮

小高市右衛門は小高新田の開祖で、徳川幕府の旗本勘定役を辞任し、旭区内の各地に点在する山林や、荒れ地を開拓し新田をつくった。その地に、自分の苗字を付けて小高新田と名付けた。そして、小高新田の総鎮守として元禄年間に社殿を創建し、祭神を勧請した。これが小高神明宮です。

 

 

 


神田公園
神田公園

神田公園
神田とは、神社に属してその収穫を祭祀・造営などの諸費にあてる田のことで、律令制では不輸祖田し、田祖を免除されました。小高神明宮の神田であったと思われます。


市沢の石塔群
市沢の石塔群

市沢の石塔群
①二十六夜塔記念碑→昭和62年

②庚申塔→天保2年(1831)

③二十六夜塔→明治5年(1872)

④猿田彦大神→明治14年(1881)

⑤馬頭観世音菩薩→慶応元年(1865)


一猿の庚申塔とおなで石
一猿の庚申塔とおなで石

一猿庚申塔とおなで石(1755)
普通庚申塔は三猿ですが、ここの庚申塔は一猿です。

隣の石はおなで石と云って耳の神様です。この石をなでて耳をなでると耳垂れ、中耳炎が治ったと云われています。


道しるべ庚申塔
道しるべ庚申塔

 

 

 

  笠付道しるべ庚申塔 安永元年(1772)建立
  この庚申塔は笠が付いているのが特徴です。

  道しるべには(右)かまくら道 (左)ぐめうぢ道とあります。


熊野神社
熊野神社

熊野神社(区内には熊野神社はここだけです。)

祭神:天照大神

 熊野信仰は、紀伊半島南部に鎮座する三つの神社に対する信仰です。

①熊野本宮大社 ②熊野速玉大社 ③熊野那智大社

 この三社は別々に成立したものとされますが、熊野全体が一つの聖地として考えられてきました。「蟻の熊野詣で」と云われるほど活況を呈したことで

 有名です。

 


 熊野神社には、石仏が6体あります。

青面金剛庚申塔が4体、阿弥陀坐像庚申塔1体、地神塔1体です。そのうち、3体の石仏が1680年の建立で区内では非常に古い石仏です。

 旭区で現在確認されている一番古い石仏は、1669年建立の目のお地蔵さんと云われる庚申塔で今宿東町にあります。

 

 


長見寺(高野山真言宗)
長見寺(高野山真言宗)

境内には、稲荷社、天満宮、筆塚、疱瘡神などが祀られています。

筆塚(明治16年建立)は元禄年間(1688~1703)の頃寺子屋を開いていました。区内では、最も古いものの一つです。このころの筆記用具と云えば毛筆だけでしたが、この筆を供養したのが筆塚と云うことです。筆塚には天満宮と云う文字が刻まれています。

 天満宮と云うのは、菅原道真を祭ったものですが今でも筆塚にお参りすると筆が上達するとか、頭がよくなると云われています。

明治11年には、境内に学制による学舎も造られました。

 


たちばなの丘公園案内図
たちばなの丘公園案内図

たちばなの丘公園は、市沢町と保土ヶ谷区仏向町にまたがる「カーリットの森」と云われて、近年まで開発の手が伸びず、昔からの自然と、谷戸の里山風景が残されてきました。夏の風物詩であるホタルが2か所で自生しているほか、野鳥観察もできる貴重な動植物の宝庫です。

 横浜駅から4kmの至近距離にあり、大正8年以来、日本カーリット(株)の火薬工場として、高い万年塀に囲まれていた立ち入り禁止地域でした。付近一帯は、危険と機密保持から開発は遅れていたのです。

 平成7年になり、火薬工場の移転が決まり、跡地の再開発計画が「たちばなの丘公園」として整備が始まりました。今回公開されたのは予定の1/3が公開されました。

①カーリットの森全体 60㌶ (18万坪)

②工場跡地30㌶ ③公園用地 12.4㌶

 

 

 


日本カーリットの移転前の全景
日本カーリットの移転前の全景
たちばなの丘公園の万年塀
たちばなの丘公園の万年塀

[日本カートリット]

 

浅野総一郎は自分の経営するセメントや石炭企業に於いて、多量の爆薬を必要としたが、戦争により輸入が途絶えるという状況になり、大正8年(1919)、

スウーデン・カートリット社の爆薬製造の権利を取得し生産を開始した。最盛期には工室が40あったが、現在は4室が残っている。平成7年(1995)、群馬県赤城山麓に工場を移転した。(敷地面積約8万坪・従業員約130名・土塁38個の規模)