5A 二俣川の歴史~明治の学び舎を巡る~ 約6.4km

コース

二俣川駅→二俣川小学校跡地→長昌寺→半ヶ谷橋→清澄塚→畠山重忠公遺烈碑→南本宿公園→切割神社→おかん坂→

浄性院→宮沢学舎→本村神明社→三仏寺→二俣川駅

 

 

主なポイントの写真紹介


明治の頃の二俣川小学校
明治の頃の二俣川小学校

区域では一番古い小学校です。

明治4年に文部省が設置され、明治5年には学制が発布され、全国を8大学区に分け、1大学区に32の中学区。

1中学区に210の小学区。1小学区に1学舎を造りました。

そのことから、明治8年の卒業証書には、第一大学区第九中学区第十二番小学二俣川学校の校名が残されています。

 

 


長昌寺
長昌寺

 

⑪長昌寺  

厚木市に在る飯山金剛寺の分院として、天正7年(1579)に創建。 曹洞宗の寺。

慶長5年(1600)、現・さちが丘第3公園付近から現在地に移転した。

七地蔵は、向かって右から順に

地持地蔵王菩薩   天王道教主  手に念珠を持つ

法性地蔵王菩薩   地獄道教主  手に香炉を持つ

鶏兜地蔵王菩薩   人間道教主  手に錫杖を持つ

陀羅尼地蔵王菩薩  餓鬼道教主  手に宝珠を持つ

宝印地蔵王菩薩   修羅道教主  手にせい旗を持つ

陀羅尼地蔵王菩薩  餓鬼道教主  手に宝珠を持つ

宝陵地蔵王菩薩   畜生道教主  手は合掌している

七地蔵の前の小石でイボをこすると、イボが取れると云う。御礼は2倍の小石を返す。

・万霊地蔵 天和4年(1684

 

・境内のクスノキは明治8年二俣川小学校開設記念樹(樹齢140年)です。

 

 


切割神社
切割神社

旧本宿村の三つの神明社のうちの一社です。

①神奈川坂神明社 ②上田神明社 ③切割神明社

一村一社が原則ですが、なぜか、本宿村は3社ありました。毎年交互に祭りを行っていたと云うことです。

境内の銀杏の木は市の名木・古木に指定されています。

 上記三社に同時に植えたと伝えますが、神奈川坂神明社は枯れてしまったようです。

 

 


浄性院
浄性院

浄土宗 源円山 浄性院

 浄性院の起こりは、元この地に源円山浄性院長安寺と云う廃寺があったのを、天正19年(1591)地頭 渡辺孫三郎が再興して浄土宗にしたとあります。

 渡辺氏は、桓武天皇の流れをくむ畠山重忠とは同族です。鬼の腕を切り落とした話で有名な「渡辺の綱」も先祖の一人と云われています。

浄性院の梵鐘は区内で最も古い梵鐘で、天明8年(1788)の物部氏の作と伝えます。

 

 


宮沢学舎
宮沢学舎

明治4年文部省設置。

明治5年学制が発布。

全国を8大学区に分け、1大学区に32の中学区。

1中学区に210の小学区。1小学区に1学舎を造る計画でした。区域では、計画上は十四学舎でしたが実際つくられたのは明治6年に五つの学舎が造られました。 ①宮沢学舎 ②市野沢学舎 ③二俣川学舎 ④今宿学舎 ⑤川井学舎の五つです。

当時の平均就学率は男55% 女30%でした。

 明治8年学舎は学校になり、宮沢学舎は三仏寺に移り(三仏寺・長昌寺・浄性院を4か月交代で巡回授業)

 明治14年二俣川村大藪に2教室の校舎を新築。

現在の、二俣川小学校の基礎となりました。

 

 

 


本村神明社
本村神明社

本村神明社の創始は古く武蔵風土記によれば、平安中期天禄元年(970)に伊勢神宮の神霊が半ヶ谷の峰に影向があったと記されています。その後、川井に移り、更に二俣川に鎮座し、又、保土ヶ谷の神戸町に移ったので、二俣川の宮を仮の宿としました。その後、神託(神のお告げ)があり神戸町(神戸神明社)に鎮座したとあります。

この、神霊に対する信仰を持続し今日に至った。

二俣川の鎮守として祀られるのは寛永19年(1642)徳川幕府から所領を賜った宅間三十郎の神殿建立に始まる。

 昭和30年頃までは、農村地帯であったので祭礼の日は村の最大の娯楽で、田舎歌舞伎や素人相撲が奉納され大変賑わったのです。二俣川小学校は休みまたは、半ドンとなり老若男女大いに楽しんだものです。

 

 


三仏寺
三仏寺

浄土宗 鶴峰山 即相院 三仏寺

当寺の観音堂に祀られる聖観世音像は、藤原時代の物と云われ、旧小机領子年33観音霊場28番札所(上川井の長源氏が27番札所)として、12毎に開帳されています。

 ☆当寺は宅間規富よって開基されましたが、宅間家代々の墓18基(旭区の文化財)が建つ宅間家の菩提寺です。

 ☆当寺の歴代住職9~12世の墓石に「施主筆子中」とあるところから、当時の寺子屋教育は天明(1781~1788)まで遡り、幕末から明治まで約100年間実施されていました。今も寺子屋時代の机が残されています。