4A 名木と石仏・石塔を訪ねて相州道を歩く 約6.4km

 

コース

鶴ヶ峰駅→帷子川親水緑道→禅導庵跡→御嶽神社→嶋崎・金子稲荷のタブノキ→馬頭観音→椚谷公園→聖徳太子像→ 三反田稲荷神社→西岸寺→相州道→六十六部供養地蔵→座頭ころばし→鎌倉道→神奈川坂→神奈川坂神社→宮沢学舎→三仏寺→二俣川駅

 

 

主なポイントの写真紹介

帷子川親水緑道よりココロットを望む
帷子川親水緑道よりココロットを望む

帷子川親水緑道 開園平成元年 約1.6ha(4654坪)

帷子川の治水対策のため河川改修により生じた、旧河川部分と、河川沿いに残っている豊かで貴重な自然を最大限活用し、雨水の貯蔵機能を持たせるとともに、市民が楽しめる憩いの空間として横浜市が整備しました。

民間と行政が協力し、ハード・ソフトを含めた総合的な取り組みが行われている地区として、国土交通省後援の「都市景観大賞・美しい街並み賞」を平成20年に受賞しました。

 

 


禅導庵跡に残る牛頭供養塔
禅導庵跡に残る牛頭供養塔

禅導庵跡

享保6年(1721)随流院(保土ヶ谷区川島町)の隠居寺として禅導院宗伯和尚により建立されました。昭和52年本堂が老朽化したため廃寺となりました。本尊は釈迦の坐像で今は、随流院に奉納してあります。

 今も、入口に子育て地蔵が祀られていますが、このお地蔵さんにまつわる面白い昔話が語り継がれています。

 又、現在の大祓の基になったと云われる牛頭天王の供養塔があります。

 

「禅導庵の子育て地蔵」は縁結び地蔵とも呼ばれ、本尊のお地蔵さんの他にもう一つ「回し地蔵」があった。

 毎年4月24日になると「回し地蔵」は禅導庵から厨子に入れられ背負われて出発し、4ヶ月かけて各地を回り、遠くは三崎の方まで行き、8月24日には戻ってきた。

 

縁日には、赤い旗、白い旗を飾り、良縁を望む若い男女や、安産を願う人達で終日賑わったと云います。赤い旗は女の子が欲しい、白い旗は男の子が欲しいという庶民の願いが込められていたと云います。また、回ってきた地蔵さんはちゃんちゃんこを着て、背中に柿の形をした「背守」(セナモリ)が付いていた。

無事に育つようにと祈る人々は、これを取って頂いて子供の背中に縫いつけ、これを頂いた人は新しい物を作り返したと云われます。また何故か、帰ってきたお地蔵さんを子供たちは決して見てはいけないと云われていた。

 

留守番地蔵は、今も寺の入口に立ち、8月24日になるとお礼に新しい着物に着せ替えられているそうです。

禅導庵の子育て地蔵は、川島のボボ地蔵とも云われました。

このボボとは、おおよそ丸いものを指す隠語・俗語で、本州の中央をはしる山脈の北側岐阜県から秋田県にかけては、赤ん坊の事をボボと云い、南側は九州に至るまで大体女陰の事を指す言葉となっている。

 

江戸時代、本居宣長と学説上対立した国学者の橘守部(タチバナ モリベ)は俗語考の中で、古事記・日本書記に出てくる女陰を指す富登(ホト)はボボであり、ベベであると述べている。保土ヶ谷はホトが基であると云う説がある。

ベベは東北地方では子牛であり、幼児言葉で着物であるが、関東地方特に群馬、埼玉では、べーべーと長音化して、男女の交わりを表現する言葉となっている。

では、なぜボボ地蔵の名前が出たかと云うと、子供を抱いた子育て地蔵・子安地蔵ですが、縁日には二里四方から大勢の若者が集まり、盛大な祭りが夜更けまで続き、恋の成就も沢山あった。「誰かさんと、誰かさんが麦畑・・」というわけで、人呼んでボボ地蔵となったと思われる。

 

 


御嶽神社の狛犬
御嶽神社の狛犬

 

御嶽(みたけ)神社

この地区に約150年前にできた御嶽講中が建てたもので、大口真神(おおぐちのまがみ)を祀る。真黒な精悍な姿をしたお犬様(狼)で、泥棒よけ、畑を荒らす猪や鹿を追払うという。

 

江戸時代、関東一円には、現・東京都青梅市の御獄山にある武蔵御獄神社を信仰する「御獄講」(山岳信仰の一つ)が行われていた。

 

毎年、くじ引きで選ばれた代表者が御獄神社に参拝して、「お狗(いぬ)さま」の御札を貰ってきて、家に貼った。

 

まっ黒で精悍な姿をした「お狗(いぬ)さま」は、泥棒よけ畑を荒らす猪や鹿を追払う御利益があるとされる。

 

武蔵御獄神社の宮司によると、「お狗(いぬ)さま」は実はオオカミだと云う。オオカミは子どもを産む時、遠吠えのような声を出す。その声を聞くと畑を荒らす猪や鹿が逃げたと云う。

現在は毎年、御師(おし)が御札を持って訪れ、60軒ばかりに御札を配って歩いている。

 

ちなみに現・東京都青梅市の御獄山に在る武蔵御嶽神社には、畠山重忠公が奉納したと伝わる国宝の赤糸威大鎧がある



嶋崎・金子稲荷のタブノキ

樹齢 約350年 樹高約5m 胸高約6.25m

樹冠の広がり 東西24.3m  南北24m

 昭和49年 横浜市の名木・古木指定。

 昭和63年 横浜市の天然記念物に指定

 同年    神奈川県の名木100選に指定。

 

 嶋崎金子稲荷は、天保年間(18301843)、地元の嶋崎家7軒、金子家2軒が祀った。

タブノキは霊が宿る木とされていたので「霊の木(たまのき)」と呼ばれ、「たまのき」が「たぶのき」に変化したと云われる。

 

昭和59年に「かながわの銘木100選」、昭和63年に横浜市の天然記念物に指定されています。

旭区内にある横浜市指定の天然記念物のもう1つは、子供自然公園の源氏ボタル及びその生息地があります。


サッチャンの民話が残る馬頭観世音
サッチャンの民話が残る馬頭観世音

馬頭観世音

天明7年(1787)建立。何気ない観音様ですが、「馬頭観音とサッチャンと云う民話が残されています。

「馬頭観音の隣に住んでいたサッチャン婆さんに馬頭観音が乗り移り、サッチャンは易を診るようになり、よく当たることから評判になり、かなり遠方からの客も多かったようです。」


聖徳太子像
聖徳太子像

聖徳太子像 文化5年(1808)建立

寺院建設史上大きな功績があったとされる聖徳太子に由来する太子講(聖徳太子を奉賛する職業講)で江戸時代からこの地で、大工職人等の間で盛んになったと伝えます。

この像、髪はみずら型 手に柄香炉を持っています。

 

平成28年2月9日に三反田稲荷社に移転しています。

 


三反田稲荷社

お稲荷さんと云えば赤い鳥居ですが、こちらの鳥居は両部鳥居(厳島神社と同型)です。

境内には、道しるべ庚申塔(寛政8年)があります。

(右)保土ヶ谷道 (左)神奈川道とありますが、方角が合わないため開発のため移動してきたようです。

 

平成28年2月9日より聖徳太子像はこちらに安置されています。



西岸寺のお題目
西岸寺のお題目

西岸寺跡

西願寺は明治初年の神仏分離令により廃寺となりましたがいまでも写真のように、本尊阿弥陀坐像の前で、地元の有志の人たちに守られて、仮堂で定期的に念佛講が開かれています。本宿の浄性院の末寺でした。

当時は、廻国巡礼66部の本拠地であり、66部を納める寺の中の一つであったと思われるます。

 66部とは、自ら書き写した法華経を全国66ヶ所の霊場に一部ずつ納める目的で、諸国の社寺を遍歴する行脚僧のことを云いましたが、江戸時代には一般の俗人も行うようになりました。

鼠木綿の着物を着て、鉦を叩き、鈴を振り、厨子を背負い家々に銭を乞い歩きながら巡礼しました。

 



六十六部供養地蔵
六十六部供養地蔵

西岸寺の項で説明した66部の供養地蔵です。

 釈迦入滅後56億7000万年後に釈迦に代わって仏になり、衆生を救うといわれる弥勒菩薩の出現まで経典を諸国に分散保管するということが趣旨です。

 俗人も行うようになってからは、6部だけのミニ版が出現し一般化に拍車をかけ庶民の間に広がりました。

 

 


相州道よりココロットを望む
相州道よりココロットを望む

相州道の一本桜

横浜市の教育委員会による「横浜の古道」によると、

 相州道は、東海道から分岐し、星川~坂本~市沢~三反  田~本宿~二俣川~大和~厚木へ向かう道となっている。

 厚木街道は神奈川往還道ともいわれ、厚木~三ツ境~東希望が丘~二俣川駅前~本村~本宿~三反田~市沢~保土ヶ谷に入るとあります。

江戸時代より明治の中期までは、大変賑わった旧道であると記されています。

 現在の、保土ヶ谷バイパスが横切るあたりから、旭警察の前、区役所の前を通って16号線に出るまでの道路は昭和11年に完成し、厚木街道と認定されたのは昭和30年のことでした。

 


鎌倉中の道(本宿小学校の上)
鎌倉中の道(本宿小学校の上)

鎌倉中の道

幅2m位で緑区寺山町→白根→鶴ヶ峰→本宿(写真)→万騎が原→大池町→柏尾(戸塚)→

鎌倉

(鎌倉上の道が瀬谷を横切る)

(鎌倉下の道が保土ヶ谷区を横切る)

 

鎌倉から北へ向かって、下野国(栃木県)までの、ほぼ直線的な古道のことです。

文治5年(1189)源頼朝の奥州藤原氏征伐の時に、開削・整備されました。

鎌倉時代を通じて「いざ、鎌倉」に対応して、御家人達が鎌倉へ向かうための戦略的な道です。現在は、往昔のままの道はほとんど残っていませんが、当時は大切な道でした。

 

鎌倉~柏尾~名瀬~大池町~万騎が原~本宿~鶴ヶ峰~白根~緑区寺山町を通る幅2m位の道です

 

 芳賀善次郎著「旧鎌倉街道・探索の旅」によると

・上の道:上野国(群馬県)→嵐山→所沢→府中→本町田→上瀬谷→飯田→俣野→山内→鎌倉

・中の道:下野国(栃木県)→古河→鳩谷→二子→荏田→鶴峰→上永谷→山内→鎌倉

・下の道:下総国(千葉県北部周辺)→松戸→浅草→大井

 

→菊名→帷子(天王町)→金沢→朝比奈→鎌倉


神奈川坂
神奈川坂

 

神奈川坂 

相州道の中間地点で、本村橋(この先に在る二俣川に架かる橋)から本宿小学校辺りまで店が並び、人々は馬に水を与えたり、2軒あったという茶屋で休憩したと云う。

神奈川往還の途中にある坂であることから、この名が付いた。

神奈川往還は、神奈川宿と厚木を結ぶ街道で、厚木街道、相州道、小机観音道とも云われています。

 

 香ちゃん事件発生。 1991年(平成3年)当時本宿小学校に通っていた。


神奈川坂神社
神奈川坂神社

神奈川坂神明社

風土記稿には本宿の内幸田谷にあり勧請の年代を伝えずとあり、旧本宿村の下川神社。他に本宿村には、原神社、谷戸神社の三社がありました。

今の名前は、それぞれ、神奈川坂神社、切割神社、上田神社と呼ばれています。


明治の頃の宮沢学舎
明治の頃の宮沢学舎

宮沢学舎 

「宮沢」は内田家の屋号で、江戸時代ここに寺小屋があった。

明治5年(1872)の学制発布により、明治6年から「宮沢学舎」として使用された。

明治8年(1875)学舎を三仏寺に移し、三仏寺→長昌寺→浄性院を4カ月交代で巡回授業を実施。

明治14年(1881)、二俣川大藪(現・二俣川農協)に二俣川小学校を新築した。

現在は物置として使用されている。

 

[明治6年の5学舎]

 

①宮沢学舎:内田宅 ②二俣川学舎:三佛寺 ③市野澤学舎:野口源右衛門宅 ④川井学舎:福泉寺 ⑤今宿学舎:本立寺、の5つの学舎が旭区 

内にできましたが、当時の平均就学率は男性55%、女性30%でした。なお、明治8年、学舎は学校となりました

 

[旭区の学校ことはじめ]

幼稚園は昭和28年に二俣川幼稚園、

小学校は明治14年に二俣川小学校、

中学校は昭和24年に鶴ヶ峰中学校、

 

高等学校は昭和16年に横浜商科大高。

 



⑱三佛寺 鶴峯山即相院三佛寺、浄土宗

初めは、観音寺と称し真言宗でしたが、慶長8年(1603年)浄土宗に改めました。

元和元年(1615年)、地頭・宅間治部少輔規富(のりとみ)が三堂(阿弥陀堂+薬師・観音堂+地蔵堂)を合併して三佛寺として開基。

院号は宅間規富の法名より採り、宅間家の菩提寺とした。代々の墓18基と2基の灯篭が遺されている。(18基の内訳は宝簴印塔4基、板碑13基、角柱塔1基)

 

また三佛寺は、旧小机領(港北・神奈川・保土ヶ谷・都筑・旭・青葉・緑区)三十三か所観音霊場巡りの28番目札所です。

 旭区では他に1カ所=27番札所長源寺(上川井)が在る。ともに子年に御開帳する。

 本堂屋根の両端の紋「絵すずめ」は宅間家の紋(上杉家・伊達家)、真ん中は浄土宗の紋です。

 

 写真は三仏寺が所蔵する、板碑と机は寺子屋時代実際に使われていた机です。

板碑とは石造りの卒塔婆のことで、鎌倉・室町時代に死者追善供養あるいは、生前の逆修供養(生前に自分の仏事を修して死後の冥福を祈ること)のため建立されるもので、特に関東地方から多く出土されています。