コース内容
鶴ヶ峰駅→畠山重忠公碑→帷子川改修看板→矢畑・腰巻→かくれ穴→清来寺→旧薬王寺跡→明治の古民家→御殿橋→都岡地区センター→
郡役所跡→指差し観音→水道道プロムナード→川井トロッコ橋→福泉寺→上川井神明社→長源寺→五神名地神塔→→大貫谷戸水路橋→
上川井町小川アメニティ→帷子川水源地→若葉台中央バス停
主なポイントの写真紹介
畠山重忠公碑
重忠没後750年を迎えた昭和30年6月22日の命日に地元鶴ヶ峰と埼玉県川本町の有志により建てられました。
この石碑には、重忠の生い立ちや、人柄、合戦の様子などが書かれています。
万騎が原には、明治25年建立の畠山重忠の遺烈碑があります。
さかさ矢竹
重忠が愛甲三郎季隆の矢に当たり討ち死にする寸前に
「我が心正しかれば、この矢に枝葉を生じ繁茂せよ」と言い残し2本の矢を突き立てました。根付いた矢は毎年2本づつ増え続け、茂り続けたと云われています。
隠れ穴
今宿南町の高山と云われる小山の南斜面中腹に古墳時代の横穴墓3基のうちの1基です。
この穴は重忠を弓で射た愛甲三郎季隆が隠れていた穴と伝える。今は、藪に覆われていて急斜面にあるので残念ながら見ることは出来ない。
なお、近くの墓地裏遺跡から出土したカメは、弥生式土器で表面に厚く煤が付着していて、内側に米を研いだ焦げが全面にこびり付いていて弥生人の生活が偲ばれる。
清来寺
浄土真宗 鶴遊山清来寺は都筑が丘、都筑が原と呼ばれた由緒の深い地域の一部にあり、昔は鶴が群れ遊んでいた寺であったと伝える。古くは、天台宗の寺で厚木にあったが寛永年間(1624~1643)にこの地に移された。
約5000坪の境内には、名木古木が沢山ある中で裏山の椎の木は、周囲約3.5m、樹齢370年以上。周囲から湧き出る清水は昭和44年頃までは生活水として使われていたと云う。又。清来寺には重忠公の武勇を讃えるため編集された巻物「夏野の露」、駕籠、親鸞・聖徳太子等の7高僧の画像、徳川歴代将軍朱印状等が寺宝として保存されている。
旧薬王寺跡
禅宗の曹洞宗派で「東光山」と号し、下川井の福泉寺の末寺で、開山は江戸中期で北譚大和尚です。本尊は現薬王寺にある薬師如来坐像でした。
明治39年に焼失。現在は墓地があるのみです。
昭和3年に、鶴ヶ峰本町に現薬王寺と共に重忠公霊堂として再建されています。
御殿橋
帷子川と中原街道が交差するこの橋は、家康が江戸入城時(天正18年1590)渡った橋です。家康はこの橋を改修し鷹狩りや民情視察等で利用し、相州高座郡の中原御殿へ行く途中この付近でお茶を点てたので、この辺りは「御殿丸」と云う字名になったという。御殿橋も家康にちなんで付けられました。
都筑郡役所
明治4年廃藩置県により、現旭区は武蔵の国都筑郡から神奈川県都筑郡になりました。これに伴い、明治11年には郡役所がこの場所に出来ました。
現在の緑区川和に新しい役所ができるまでの、ほんの一時期でした。
明治22年 市町村制の施行により、都筑郡から横浜市になり、帷子川を挟んで都岡村と二俣川村になる。(旭区域は都筑郡のまま)
昭和2年 横浜市は区政が施行され5区誕生。
昭和14年市域の6次拡張により、都岡村、二俣川村が横浜市保土ヶ谷区に編入、横浜市民となる。
昭和44年 横浜市が行政区再編成を行い、保土ヶ谷区から分区し、旭区が誕生しました。
指差し観音像
天明4年(1784)の銘がある観音道標です。碑には右神奈川道 左江戸道とあり、それぞれの道を教える指差し観音道標でしたが、昔は街道の反対側かんのう山にありました。一時期、都岡小学校の一隅に移り、それから今の場所に安置されました。
したがって、観音道標のとおりに進んでも神奈川道、江戸道の方向には行きませんのでご注意を?
江戸時代は、何気ない路傍の石仏・石塔が旅行者の道案内をしていましたが、戦後、都市化が進み宅地化されて石仏たちは消えていってしまいました。せめて今ある石仏を守り後世に残したいものです。
八幡神社
応神天皇を主神とし、通例、比売神、神功皇后を配祀する神社です。弓矢の神として、武士を中心に古くから広く尊崇されました。大分県の宇佐神宮を総本社として全国各地にありますが旭区ではここ一社です。
平安朝の昔、八幡太郎義家公が奥州征伐の折、ここ八幡社の境内に、弓場をつくり、弓矢の鍛錬をすると共に、自分の守り本尊を、その場に祭り戦勝を祈願したと伝わります。
やがて、勝って帰る途中、戦勝のお礼にと、この地に八幡社を建立したと云われています。
岩船地蔵尊 享保10年建立
旭区内には6体の岩船地蔵尊があります。
船に乗ったお地蔵さんが多くあります。このことから、六道(死後の世界)の苦界に竿で船を操り溺れる人たちを助ける者の象徴と思われます。
当時、全国的に享保の飢餓と云われた時代に建立されました。農作物の不作、疫病の蔓延等で人身は動揺し社会は不安定となりました。この為、疫病等の侵入を防ぎ、老人や幼児を守るためにこのお地蔵さんが建てられたと伝えます。以来二百八十余年間地元の有志の方々に支えられて、今は、子育て地蔵として、川井の地を見守っています。
水道道プロムナード
明治20年に完成した日本最初の近代水道(相模原市津久井町三井・津久井湖上流で相模川と道志川の合流付近から野毛山浄水場まで)の水路管・鋳鋼製が埋設されました。
その水路管が敷設された上の道を横浜市水道道と云いますが地域の活性化と、水道道の記憶を後世に伝えるために整備されました。
川井トロッコ橋
明治20年日本で最初の近代水道が横浜に完成しました。
その時の資材などの運搬手段として、津久井郡三井村から横浜村までの約44kmの水道道に敷設された当時のトロッコのレールが保存されています。
曹洞宗 清隆山 福泉寺
宗髄の開創と云われていますが、残念ながら、明治24年の火災により、お寺の歴史に関しては梵鐘以外すべてを焼失したため不明です。1600年頃長津田の大林寺の大和尚により、開山、中興されたと云われています。
写真は平成8年に完成した区内では例を見ない立派な山門です。両脇にはどっしりと仁王像が安置されています。
福泉寺は明治6年今日の小学校の前身である川井学校があったお寺です。
境内には樹齢数百年といわれる市指定の名木・古木 カヤ・ムク・イチョウの大木が聳えています。
上川井神明社
上川井の鎮守として、尊崇され江戸時代は長源寺の別当寺でした。境内の石仏の台座に河井村と記されているところから、この社は、河井村は元禄年間
(1688~1709)になってから三つの村に分かれていることから江戸中期以前に創建されていたと思われる。
長源寺
天平11年(739)行基によって開山された寺で、区内で一番古くからある寺です。
川井山観音院と号していました。その後、永長年中(1096)に八幡太郎義家が修理を加えたといわれる。その後、華厳宗から高野山真言宗に改められる。
本堂に安置されている本尊の大日如来は市指定の文化財です。室町時代の作とされる寄木造りの仏像です。
玉眼、肌の部分は金泥が塗られ、着物の部分は漆箔が貼られており、像底には学僧印融が永正10年(1513)に寄付したとの墨書きがあります。
又、観音堂に祀られている十一面観音は行基の作と云われる木の立像です。旧小机領三十三観音霊場27番札所として信仰されています。(本村の三仏寺が28番札所) 又、明治13年から2年余り上川井学校の仮校舎として使用されていました。
大貫谷戸の地蔵菩薩
赤いよだれがけを身にまとったお地蔵様の建立は、富士山大噴火の二年後、宝永6年です。こんな言い伝えがあります。当時この辺りの村は、噴火による降灰と疫病(今のはしか)に悩まされていました。そこで村人たちは、この窮地を救ってもらおうとお地蔵さんを建て熱心にお参りしました。
すると、疫病もおさまり再び平和な村に戻りました。
それから今日まで、地元有志の方々に大切に守られています。
大貫谷戸水路橋
「神奈川橋100選」に選ばれている横浜市水道局の鋼鉄製の水路橋です。
昭和27年完成。長さ306m。高さ24m、長大水路橋としては、全国的のも珍しい存在になっています。
上川井町小川アメニティー
帷子川水源地より流れ出る清流を利用して、豊かな実りを約束されている畑の端を小川として、区民が散歩できる道を整備しました。
帷子川の水源
帷子川は旭区の西北端に源を発し、東京湾に注ぎこむ区内の代表的な河川です。水源は上川井町東根谷と呼ばれる大貫台地の麓から湧き出ていましたが、源流付近は若葉台団地の造成により地形が変わり今はここが源流地とされています。