三ツ境駅→野境道(武相国境・桜並木)→矢指谷遺跡→追分・矢指市民の森→岩船地蔵尊→見晴らしポケットパーク→矢指の一里塚→旧中原街道→
下川井庚申塔→三嶋神社→御殿橋→都岡地区センター→都筑郡役所跡→指差し観音→小池跡→上白根大池跡
主なポイントの写真説明
三ツ境駅は昔、二俣川村、川井村、阿久和村の三つの村の境になる所から三ツ境と呼ばれていました。
野境道
野境道はいまから約300年程前の宝永3年(1706)の頃から江戸と鎌倉を結ぶ間道として利用れていました。
緑区長津田駅付近で中原街道から別れ区内では川井(日向根山)現在の若葉台を迂回して大貫橋より東根谷を通り吉祥寺山の裾を超えて鎌倉へと行った。この道は、武蔵と相模の国の境を通ることから野境道と云った。
今は区内では、「こども自然公園」「ふるさと尾根道」に並んで桜の名所になっています。
矢指谷戸史跡
矢指谷遺跡は横浜市では最古の遺跡です。
病院建設時に発見され、昭和59~60年に発掘調査されました。旧石器時代(先土器時代)のナイフ形石器、磨り石、敲き石、等の石器と、その原石、剥片が出土しています。また、人々の生活面が3面確認され、姶良、丹沢火山灰(関東ローム層)下の地下1.5mの深さは2万年前に相当します。上の写真は、横浜市歴史博物館に展示してある矢指谷遺跡の地層の模型です。
縄文時代早期、前期(紀元前6000~4000)の頃にかけての100基余りの土坑(写真)が発見されています。
土坑は動物を捕るための落とし穴と伝えます。
その他、竪穴住居跡、炉穴(調理場)等が発見され旧石器時代から縄文時代前半期の人々の生活ぶりを極めて良好な形で知ることができます。
追分矢指市民の森
追分・矢指市民の森は谷戸の田園風景と樹林が一体となり四季折々の自然を楽しむことができます。
故郷の景色を思い出させる森、木の香り漂う森、花畑は季節により、菜の花、ひまわり、コスモス、等楽しむことができます。鳥の声をバックに小川のせせらぎを一緒に連れての散策は気分爽快です。
岩船地蔵尊
別名イボトリ地蔵尊。享保2年(1724)この辺りに悪病が流行したが、村人たちはこのお地蔵さんに病気の退散を願ったと伝えています。
「ハレモノ」「イボ」のできた人が供えてある石を一つ持ち帰り、朝夕二回ほど撫ぜると治ったといいます。
全快のお礼には、清流の小石を倍にして返すことです。
区内には6体の岩船地蔵が見つかっています。
見晴らしポケットパーク
旧中原街道から昭和45年頃できた東急ニュータウンを見おるす場所です。東急ニュータウン通りは、1.1kmの紅葉が美しい唐楓と、5kmの銀杏並木が二俣川駅まで続いています。
下川井の庚申塔
左側の石仏が享保15年建立の青面金剛庚申塔です
江戸時代のこんな話が伝わってます。
「一匹の狸が、中原街道を歩いていると、この恐ろしい顔をした青面金剛が睨んでいるではありませんか、それを見た狸は、これは一大事と遠回りをしました。
そして、僧に化けて、矢指谷戸の桜井さんに、一夜の宿を頼みました。桜井さんのご主人は、可愛そうな旅の僧だと思い、気持ちよく迎え入れたということです。
狸は、主人の手厚いもてなしに、感動して、お礼に掛け軸に絵を書いて置いて帰りました。
桜井さんは、今でも、この掛け軸を大切に持っているそうです。」
三嶋神社
祭神の大山祇神が摂津の御志摩(三島)に鎮座したとされる事から三嶋神社と呼ばれているようです。
由緒は不明ですが、川井村が上下に分かれていた寛永年間(1624~1643)には現存していたようです。
境内には稲荷社も合祀されています。また、江戸時代書家として活躍した、新田道純筆の社名扁額が納められています。
明治4年に廃藩置県により、現旭区は武蔵の国都筑郡から神奈川県都筑郡になりました。それに伴い、明治11年に郡役所ができたのがこの場所でしたが、緑区の川和に新しい郡役所ができるまでの僅かな期間でした。以後昭和14年まで村役場となっていました。
明治22年市制が施行され、都筑郡から横浜市になりました。(旭区域は含まれず)帷子川を挟んで西が二俣川村、東が都岡村となりました。
昭和2年 横浜市は区政を施行し、五区誕生。
昭和14年市域6次拡張で保土ヶ谷区に編入され横浜市民となる
昭和44年 旭区誕生。
天明4年(1784)の銘のある指差し観音です。
江戸道、神奈川道の方向を教える指差し道標です。
この道標は、昔、かんのう山あり、それから都岡小学校に移り、三度目の移転でこの場所に来ました。
したがって、指の指す方向は違っていますので念のため?