コース
鶴ヶ峰ココロット→鎧の渡し緑道→首塚→重忠公碑・さかさ矢竹→矢畑・腰巻→すづり石水跡→薬王寺・六つ塚→鶴ヶ峰神社→駕籠塚→
白根地区センター→白糸の滝(大滝)→万葉の歌碑→行者の滝(小滝)→蛇塚→白根不動尊→白根村道橋改修碑→帷子川分水路→
帷子川親水緑道→鶴ヶ峰駅
主なポイントの写真紹介
鎧の渡し緑道
鎧の渡し緑道は平成18年に完成公開されました。
改修前の帷子川の流れは、現在の駐輪場付近を半円状に周回し、鎧橋の下を通過して親水緑道方面に蛇行していました。
明治20年に完成した日本最初の近代水道の水路管が帷子川を通過するときに設置されたのが鎧橋で平成15年の道路改修時に撤去され現在のモニュメントになりました。
鶴ヶ峰の合戦で槍の名手、愛甲三郎季隆の矢に殺された重忠の首は、首塚の辺りで斬られました。
帷子川の清流あふれる河原の井戸で洗い清められ、鎌倉に送られました。今は、当時を偲ぶ井戸も無く支柱だけですが、当時は、1m位の穴が河原にあって清水がコンコンと湧いていたということです。
首塚
元久2年(1205)6月22日畠山重忠が北条軍の愛甲三郎季隆の矢に当たり、この辺りで首を切られ首洗い井戸で洗い清められて鎌倉に送られました。
現在、首塚は西向きですが、当時は南(鎌倉)を向いていました。なお、重忠を討った愛甲三郎季隆は8年後の和田義盛の乱では和田氏側に付いて北条氏と戦い討たれてしまいます。
この首塚の前の細い道が、鎌倉中の道で当時からの古道です。
畠山重忠公碑 平成26年度が生誕850年
重忠没後750年を迎えた昭和30年6月22日の命日に、地元鶴ヶ峰と埼玉県川本町の有志により建てられたものです。この石碑には、重忠公の生い立ちや、人柄、合戦の様子などが書かれています。
口伝では、重忠公は北条軍の矢に当たり討ち死にしたと伝えますが、公碑には重忠公は自刃したと刻まれています。(愚管抄)
重忠公のほか134士の御霊(ミタマ)を合祀し、七重の塔が建立されました。
すずり石水跡(昭和30年代の頃の写真)
重忠が陣を張った時、ここの水で墨をすったと伝えられています。谷戸の奥にあたる場所で、昭和初期までは崖からきれいな湧き水が流れていました。
重忠は妻への手紙に辞世の歌でも書き送ったのでしょうか?
埼玉県の地元川本町に辞世の歌を想わせるようなこんな歌があるとか?
「頼みがたきは世の常か、誠一途が謀反とは、恨みも深く二俣に、武士(もののふ)の意地花と散る」
(1)畠山霊堂創建記念碑→昭和39年建立(右側の塚の奥)
昭和の初めここに重忠公の霊廟を建てようと云う運動が起こります。
これは地元の発声ではなく、「武蔵戦記」などを書いた人で、重忠公を武士道の神として崇敬し、知・仁・勇に惚れ込んだという陸軍大佐栗原勇(佐賀県出身)の発声でした。
地元の篤志家達に発願し、仏教徒の協力を得て重忠公の霊堂を建て読経供養や参禅などの道場にしたいというもので、十方各位の協力を得たと碑文に有ります。
栗原氏は準備を進め、昭和2年2月15日には一村挙げて、重忠公の墓前に集い追悼会が厳粛に執り行われた。
翌3年、保存会を発足させ、霊堂を作る計画を立てたが許可にならず。
今宿南町にあり、明治39年に焼失後廃寺になっていた薬王寺を移設する条件で昭和3年に再建され、昭和5年霊堂が別棟で完成した。
この霊堂は戦後間もなく無くなり、薬王寺の建て替えで合体され、昭和39年に現在のような建物になりました。
毎年命日の6月22日には各地の関係者(埼玉県川本町、岩手県田野畑村)が参加して盛大に慰霊祭が行われています。
(2)畠山重忠公戦没の地→昭和10年建立.
昭和10年、横浜貿易新報(明治23年(1890)創刊は横浜商人達の手によって創刊された神奈川新聞の前身)が創立45周年に因み募集した「県下名勝史跡45選」で畠山重忠公戦没の地が31位で入選記念碑が建てられた。
(1位⇒石小屋(愛甲郡半原) 2位⇒妙香寺(北方町) 3位⇒峰の灸(円海山)
これも一重に名勝保存会の活動もあったが、この宣伝により、その後の「鶴ヶ峰に重忠公の遺跡あり」が継承されてきたことに繋がる。大変意義のある石碑である。
こうしてみてくると、重忠公は昭和に入ってからの、武士道の復興や富国強兵思想の啓蒙にも、一役買ってきたと云えます。
重忠公のお墓は何処に?この六つ塚は正式な墓ではありません。重忠公の墓は、生誕地の川本町の重忠公史跡公園内にある五輪塔様式の墓があります。菩提寺として埼玉に萬福寺があり、寺内には位牌が安置されている。
鎌倉釜利谷の東光禅寺には墓ではないが、五輪塔があり、薬王寺には重忠公の位牌と菊の前の位牌が有ります。
当地に民話「六つ塚の祟り」と峰宇稲荷の民話が伝えられています。
六つ塚
薬王寺の境内には、北条時政・牧の方の陰謀にはまり、42歳の生涯をこの地で閉じた重忠はじめ一族郎党134騎が葬られている六つ塚があります。塚の周辺には、供養のための畠山地蔵が建てられています。
昭和2年当地で重忠の慰霊祭が盛大に行われ、翌3年に保存会が発足し、昭和5年、今宿南町あり明治39年に焼失した旧薬王寺をここに移すとともに霊堂が完成しました。
重忠の菩提寺として霊堂には、重忠公の金箔の零位が祀られています。
毎年、命日の6月22日には各地の関係者(埼玉県川本町・岩手県田野畑村等)が参加して盛大に慰霊祭が行われます。
昭和初期の頃の、県下名勝史蹟45佳選の碑があり、大変景色の優れたところでした。
鶴ヶ峰神社
この神社は、明治39年、政府が小さな神社の合併を推奨した際、今宿村の神明社に吸収されましたが、昭和39年氏子会の努力が実って、この場所に返還され鶴ヶ峰神社となりました。
駕籠塚
重忠の内室「菊の前」は合戦の知らせを受け、駆けつけました。しかし、この地で重忠の戦死を知り乗っていた駕籠の中で自害し夫の後を追ったと伝えられています。
遺体は駕籠ごと埋葬された為「駕籠塚」と呼ばれるようになりました。
以前は、浄水場の中にあり周りを竹で囲まれた大きな塚であったと伝えますが、昭和30年に場外に移され、昭和49年に再度移されて現在の姿に整備されました。
碑文には「重忠は岳父、北条時政の策謀により、免罪を被る・・」とあり、「菊の前」は時政の娘ですから、頼朝の妻「政子」と兄弟であり、敵軍の大将義時の妹に当たります。この当時は、一人の権力争いの野望の前に親子、兄弟が骨肉の争いに巻き込まれる世の中であったことがわかります。
白糸の滝
白根神社の境内を流れる中堀川の大滝が白糸の滝です。
白糸の滝は幅9.1m 落差5.5mの市内最大の滝と云われていましたが、今は、幅7m 落差3.2mと当時よりやや小さくなりました。
万葉の歌碑
我が国最古の歌集「万葉集」は16代仁徳天皇から47代淳仁天皇までの約350年間に作られた4500首を記録している。大和朝廷文化から生まれたものが主ですが、特異な存在として防人の歌があります。
防人は、筑紫、壱岐、対馬など北九州の守備のため3年を一期として、交代する規定で派遣することが多かった。
服部於由の歌
「わがゆきの、息つくしかば足柄の、峰はほ雲を、見と 偲はね」
服部砦女の歌
「わかせなを、筑紫にやりて愛おしみ、帯は解かなな、 あやにかもねも」
蛇t塚
二俣川の大池には、昔、池の主として蛇が住み着いていました。この蛇は、田畑を水害から守る水神様として村人から崇拝されていました。水神の信仰に厚かった村人たちは、池の主の子孫を手厚く葬り、ここに、蛇塚を建てたと云われています。
上白根にも当時、大池があり蛇の民話が伝わっていますが何故か、この蛇塚は二俣川の大池の民話のようです。
小滝
中堀川の大滝が白糸の滝で、小滝が昔、行者の修行に使われたことから、行者の滝と云われています。
白根不動尊
「白根神社」と「白根不動」が共存する不思議な存在=神仏混淆の典型か。
八幡太郎義家(武勇で知られた源氏の棟梁・弓の達人と云われた源義家、源頼朝の4代前)が、前9年の役(1051年~1062年)で、父頼家とともに東北地方の安倍一族を討伐した。その時、弘法大師作とされる(一寸七分=約5cm)を兜に入れて戦って勝利を納めたことに感謝して、康平6年(1063)この地に伽藍を建立し、不動明王坐像を祀った。これが、白根のお不動さんの始まりです。
不動信仰は特に関東で流行り、五色不動(白・黒・赤・青・黄)が町を守るとされ、目黒・目白等不動信仰の名残の地名として残っている。白根の不動尊は青不動と思われる。
*建久2年(1191)、堂宇を再び造営。
*正慶の頃(1333)、新田義貞が鎌倉を攻めた時、兵火によって全焼し、不動明王坐像が焼失。
*元禄7年(1694)、畑の中から不動明王坐像が出土し、浄土宗・正願寺(しょうがんじ)を建立。本堂が山の上にあって階段を登らなければならなくて不便であったことから、人々が参拝しやすいよう山の下に前不動として、不動明王坐像が発見された場所に建設されたものと思われる。
正願寺は浄土宗の寺であったが、「村の鎮守さま」として親しまれていて、神仏習合、神仏混淆の典型的な形態になっていた。
明治に入り、「神仏分離令」によって正願寺は廃寺となり、白根神社(日本武尊)となった。(白根神社の祭礼9月28日は、お不動さんの縁日と同じ)今は、山の上に社は移り「日本武尊」が祀られ、その山の下の平地には不動堂があり不動明王が祀られています。
(注)上記の文中「正願寺」とあるが、正しくは「成願寺(じょうがんじ)」です。以下同じ。
新編武蔵風土記稿には成願寺と記載あり。また、門前の説明書きも、設置者の横浜市教育委員会により、訂正済み。
「白根神社」と「白根不動」が共存する不思議な存在で神仏混淆の典型となっている。
八幡太郎義家(武勇で知られた源氏の棟梁・弓の達人と云われた源義家、源頼朝の4代前)が、前9年の役(1051年~1062年)で、父頼家とともに東北地方の安倍一族を討伐した。その時、弘法大師作とされる(一寸七分=約5cm)を兜に入れて戦って勝利を納めたことに感謝して、康平6年(1063)この地に伽藍を建立し、不動明王坐像を祀った。これが、白根のお不動さんの始まりです。
明治に入り、「神仏分離令」によって正願寺は廃寺となり、白根神社(日本武尊)となった。(白根神社の祭礼9月28日は、お不動さんの縁日と同じ)今は、山の上に社は移り「日本武尊」が祀られ、その山の下の平地には不動堂があり不動明王が祀られています。
白根不動のだるま市(毎年1月28日)
白根不動の本尊は、弘法太師の作と伝えられる一寸七分(約5cm)の不動明王坐像です。源義家が、前九年の役で、この坐像を兜の中に納め大勝を得て、康平6年(1063)鎌倉権五郎景政に命じて伽藍を建立しました。
その後文治5年(1189)、源頼朝奥州藤原氏討伐の途次、義家の故事を想起し、境内の池で身を清め勝利の祈誓をした。その池は鬢手洗池として伝承されている。
新田義貞の鎌倉攻め(1332)により焼失し、元禄7年(1694)再建されました。
明治時代以前は、白龍山正願寺が別当寺(神仏習合説に基づいて神社に作られた寺)になっていましたが、明治初年の神仏分離令により、正願寺は廃寺になり、以後白根神社となりなした。
しかし、神仏混淆時代の影響が色濃く残り白根不動尊(白根のお不動さん)として現在でも近郷近在の人々から親しまれています。
特に、1月28日の初不動のだるま市は大勢の人々が集まり大人気です
道しるべ不動尊
旧八王子往還道(現国道16号線)から白根不動尊への参道入り口です。寛政9年(1797)に建てられた、道しるべ不動像があります。
白根村道橋改修碑(横浜市地域史跡)
元文4年(1739年 8代将軍吉宗の頃)に建立された供養塔です。
現在の16号線の状況からは理解できませんが、当時の八王子往還は蛇行する帷子川と、かなり険しい山が入り組んでいて、道行きの難所が白根村と和田村付近にありました。この碑は、白根村の難所の改修に尽力した人と改修の理由及び今後の維持管理などが記載されています。
「ここ、山道人馬の往来難儀のゆえに、この度その所の田地を買い求め、往来安からむ者也」とある。江戸の住人、桜井茂左衛門が供養のため、土地を買収し、破損した橋を改修し、往来の難儀を救ったとあります。
和田町にも同じような供養塔があります。
かつて暴れ川と云われた帷子川は屈曲が多く、度々冠水に見舞われ、橋が流失するなど難所の道で人馬の往来は容易でない所でした。
江戸の商人桜井茂左衛門が私財を投じ、住民の協力のもと道橋を改修した供養塔を兼ねた改修記念碑です。
横浜市指定の文化財です。
帷子川分水路
帷子川分水路の取水庭は、川が一定の水量(流量)を超えると、自然に堰を超えて分水路トンネルに流れ込むようになっています。昭和33年の台風で大きな被害を受けました。これを契機に分水路の工事は始まり、平成9年に完成しました。今は皆様に利用していただけるように、植栽をはじめ、噴水や園路など環境や景観に配慮した整備がされています。
帷子川親水緑道
帷子川親水緑道は①「池と庭園」②「広場」③「せせらぎ」の3ゾーンからなり約1.6haの広さがあります。
帷子川の治水対策のため河川改修により生じた、旧河川部分と、河川沿いに残っている貴重な自然を最大限活用して、雨水の貯留機能を持たせるとともに、市民が楽しめる憩いの空間として整備されています。
すぐ隣を流れる帷子川には、カルガモの親子も見ることができます。